夏の空が青く澄み渡っているある晴れた日。
 カナムーン城の側の森は青々と木々が立ち並んでいた。
 気温は高いが、空気が乾燥している為、そこまで暑いとは感じない。森に入ると日が遮られ、涼しいくらいだった。

「えっと、リリミアの実。それから……」

 十歳になったばかりの黒髪の少年タナは、左手に籠(かご)を、右手にメモを持って森を歩いていた。

「何でアリーネ様北方の言葉で書くかなぁ……。んー…っと、ソロハシ草…?」

 メモとにらめっこをしながらタナは森を進んだ。
 小さな精霊が彼の周りに集まり、黒く短い髪を弄ぶ。

「君たち、これ、読めないよねぇ……」

 ためしに精霊にメモを見せてみた。すると、文字が読めたのか、精霊たちが案内し始めた。

「わ、ありがとう!」

 慌てて精霊たちの後を追うタナ。少し走ると開けた場所に出て、目の前には細い川が流れていた。
 精霊たちは川の側でクルクルと回り、その度に透明な羽と川の水が光を反射して輝いていた。
 綺麗な光景にタナは暫く見惚れていた。

 ふいに風が起こる。
 突風はタナの髪をはためかせ、油断していた為、手に持っていたメモが飛んで行く。
 そして精霊たちは風が起こった方をじっと見て、一目散に逃げていった。

 中にはタナの髪を引っ張って教えようとするが、精霊の言葉はまだ彼には分からない。
 精霊の異常な様子に困惑したまま突っ立っていると、再び風が起こり、そして地面に何かが降り立った。
 最後までタナの側にいた精霊も、とうとう逃げ出してしまった。

 舞う黒い羽根。
 空打ちさせる羽音。
 タナは恐る恐る振り返った。

「はぁい、サフラン、久しぶり」

 タナは素早く逃げ出そうとするが、腕を掴まれた方が早かった。

「おっと、逃がさないわよ。やっと見つけたんだから」

 耳の下まで伸びる黒い髪が風に揺れている。瞳は深い緑。男性が着るような服装だが、スタイルは良く、そしてかなりの美人だった。
 それだけならタナは逃げようとはしなかった。
 彼女には、彼女の背中には黒い大きな翼がある。そして先の尖った耳。
 間違いなく魔族なのだろう。
 タナはじっと彼女を見つめていた。

「ヤダ、そんな顔するもんじゃないわよ。折角の男前が台無しじゃない」

 すっとタナの顔に手が伸びる。殴られると思ったタナは、思わず目を固く閉じた。

「ふふふ、やっぱ子供ね」

 軽く頬に触れた手は温かかった。ゆっくりと目を開けると彼女の緑の双眸とぶつかる。
 彼女はにっこりと笑い、タナの額にでこぴんをした。

「いたっ!」

 手加減なしにやられたので涙が出る。そんな様子を彼女は楽しそうに見ていた。

「あははは! さあ、ついてきなさい、サフラン。アビス様にお会いするのよ」
「え!?」
「何よ、逆らうつもり? だったら無理やりでも……」

 ふわりと体が宙に浮く。女性がタナの体を抱きかかえているのだ。

「暴れたら叩き落すわよ」

 ばさっと背中の翼が大きく広がり、数度空打ちさせると宙に浮いた。
 森の木々よりも高く浮くと、女性はタナの意見を聞かず、そのまま飛んでいった。




 気が付いたら牢の中にいた。
 カシャンと音がし、顔を向けると黒い髪の女性が一度こちらを向き、そして隣りに立っている背の低い小柄な男性と話していた。

「じゃあ、私はアビス様に報告してくるから、宜しくね」
「お任せ下さい、セルジュ様」

 深く頭を下げる男性を満足そうに見て、セルジュと呼ばれた女性は歩いて行った。
 彼女の足音が遠ざかると、男性は牢の中にいるタナを見た。

「この牢には魔力を封じる結界が張ってあるので、あまり暴れないで下さいね」

 牢の隅の闇に半分まぎれている少年を見て、苦笑いを浮かべる。

「サフランさんにこんな事をするのは心苦しいですが、アビス様に逆らうと僕、あしたから太陽を拝めなくなっちゃうんです。それじゃなくても500年前にちょっと協力しただけで、こんな陰気な牢屋の看守をやらされるし……。でもこうしてサフランさんに会えたのは嬉しいですよ。昔は仲良くしてもらいましたし。あ、ところで楠(くすのき)を数本折ったのってサフランさんたちでしょ? 二人して逃げて、僕が怒られたんですよ〜……」

 牢の前に座り込んで男性はベラベラと喋り続けていた。タナは全く聞かず、じっと自分の腕を見ていた。
 手首についている銀製の手枷(てかせ)が、牢の外のランプの明かりに鈍く光る。
 魔力を封じているのか、試しに魔法を使ってみても何も起きなかった。

(アリーネ様、心配してるだろうな……)

 育ての親の顔を思い浮かべ、小さく溜息をつく。
 ここは一体何処なんだ、どうやったらここから逃げ出せるか、アリーネは自分を助けに来てくれるだろうか、と色々と考えながら、男性の話を子守唄代わりにし、タナはゆっくりと目を閉じて眠った。



 赤い絨毯が敷かれた玉座に黒髪の男性が座っていた。同色の瞳は、数段下がった場所に立っている黒髪の女性を見ている。
 椅子の右隣りに金髪の背の高い青年が立っており、同じように女性を見ていた。

「アビス様、サフランを連れてきました」

 頭を下げたまま女性が言う。足を組み直して男性は小さく微笑んだ。

「ご苦労、セルジュ。それでサフランは?」
「牢の方に。一応魔力封じの結界を張ってますが、まだ子供ですので何もできないでしょう」
「そうか、子供か。また人間か。女神共もいい加減力尽きたかと思ったが……」

 顎に手を当て、そのまま考えに没頭する。だが全く何も閃かなかったので、考えるのをやめた。

「あとでサフランに会おう。下がっていいぞセルジュ」
「はっ」

 深く礼をし、セルジュは姿を消した。
 それからふいに男性は側に立っている青年の方を向いた。だがそこに立っていた金髪の青年は何時の間にか姿を消していた。
 一瞬呼び戻そうと思い、口を開きかけたが、彼に何か用がある訳ではないし、それに彼が何をしているのかが容易く想像できたので、開きかけた口の端を上げた。

「全く、あいつはいつまでたっても諦めんな。だが今回はそれ相応の責任を取ってもらおう……」

 呟きは、男性以外に誰もいない玉座に響き渡っていった。



 同じ頃。四大陸の北大陸にあるカナムーン国は大騒ぎだった。
 王宮魔道士長のアリーネの弟子の、義理の子供と言ってもいい少年が、魔族に攫(さら)われたのだ。
 重臣や将軍らを始め、同じ王宮魔道士の面々に、そして国王陛下までもが城の中をうろうろと歩き回っていた。

 アリーネは自室から侍女を全て追い出し、そしてテーブルの上に置いてある籠をじっと見つめていた。
 近くの森に薬草を採りに行ったタナが、いつまでたっても戻ってこなかったので、アリーネは心配になって捜しに行った。
 彼女が頼んだ薬草のある場所は一つしかないので、迷う事なくタナを捜す。

 少しくらいは寄り道をして、思い切り遊んできてもいいのに、あの少年はいつも真っ直ぐ帰ってきていた。
 今日は帰りが遅かったので、もしかすると何処かで遊んでいるのかも知れないと思い、自ら帰ってくるのを待ったが、夕方になっても戻ってこなかったので、アリーネはこうして森へと向かった。

 ただ時間を忘れて遊んでいるだけだろうと思いつつ、それでも不安は消えず、そして薬草のある場所に到着すると彼女の嫌な予感は見事的中してしまった。

 細い川の側に多くの精霊が集まっており、その中心にはタナが持っていった籠が落ちていた。
 精霊たちに話を聞くと、魔族が現れてタナを攫っていったとの事だった。

 魔族が彼をずっと狙い続けていたのは分かっている。彼はあの大賢者の生まれ変わりなのだ。殺さずに連れて行った魔族の目的は分からないが、無事なら助け出さなければいけない。
 育ての親といえど、本当の子供の様に愛しているタナが攫われてしまい、暫く落ち込んでいたアリーネだったが、何とか立ち直り、籠を持って城へと戻った。国王陛下たちに事情を説明し、今、自室に一人きりになってどうやってタナを助け出すかを考えていた。

 もしタナの身に何かあると、彼の両親に顔向けできなくなる。

 ふとある事を思い出して、アリーネは文机へ向かった。引出しから一冊の本を取り出し、手に取ってパラパラとめくってゆく。

「己を犠牲にしてでも、守り通さないといけませんよね。――兄様……」

 アリーネが広げたページには、複雑な魔法陣が描かれていた。





 男性の叫び声がし、タナはぱちりと目を覚ました。
 一瞬ここがどこだか分からなかったが、目の前に鉄格子があるのを見て、すぐに牢屋だと理解する。
 ゆっくりと体を起こして、牢屋の外の会話に耳を傾けた。

「困ります! 僕が怒られるんですよ!?」
「俺が全て責任を取るから……頼むよ」

 どうやらここの看守と別の男性が言い合っているようだった。

「そりゃ、僕だってサフランさんの為に何かしたいと思ってますよ。でも今、ギリギリのところで生きているんです。これ以上アビス様に逆らったら僕……」

 看守の言葉は続かなかった。代わりにもう一人の男性が言う。

「わかってるよ。魔族は皆魔王には逆らえない。だから、バレた時は全部俺が責任取るから。貸しにしておいてくれないか」
「いくつ貸しがあると思ってるんですか!」

 泣き叫びのような看守の声に、男性は声を上げて笑った。だが笑ったのはほんの一瞬で、すぐに真面目な声が聞えた。

「全てが終わったら、サフランと共にきちんと返すよ」

 耳に心地の良い声に、看守の男性は黙った。

 沈黙が続く。
 ランプのアルコールが燃える音だけが、牢屋に響き渡る。

 先に沈黙を破ったのは看守の方だった。

「分かりました。でもこれで最後ですよ?」
「有難う。感謝してるよ」
「……一体何時、こんな事が終わるんでしょうね……」

 看守が小さく呟いたが、足音でそれはかき消された。
 タナは寝たふりをしようと思ったが、すぐに諦め、じっと誰かがくるのを待った。
 段々と足音が近付き、鉄格子の前に金髪の青年がランプを持って現れた。オレンジ色の瞳が牢の中のタナを見て、にっこりと微笑む。

「起きていたのか、サフラン」

 カチャリと小さな音を立て、牢の鍵を開けて青年が中に入ってきた。タナの目の前に腰を下ろし、ランプを側に置く。タナの両手を優しく取って、じっと黒い瞳を見つめた。

「本当にそっくりだ。何もかも、サフランに……」

 どこか愁いじみた声で呟いたあと、小さく呪文を唱えて、タナの両手首についている銀製の手枷を外した。
 タナは目の前の青年が何をしたがっているのかが全く分からず、じっと彼を見る。その視線に気付き、青年は視線を合わせて微笑んだ。

「アイオンの子供じゃないよな? もう500年は経っているみたいだし……。名前は?」
「タナ……。タナ=トッシュ」

 タナの小さな答えに、青年は少し眉根を寄せた。

「ジルクリストじゃないのか?」
「?」

 言っている意味がわからず、タナは首を傾げる。青年は小さく溜息をついた。

「そうか……女神たちらしいな」

 再びタナは首を傾げる。だが青年は答えずタナの手を取って立ち上がった。

「行こう」
「え?」
「帰るんだろ?」

 彼は自分を逃げ出すつもりなんだとやっと分かった。だがそんな事をして罰せられるのではないだろうか。
 タナの考えに気付いたのか、青年は「大丈夫」と言った。

「気にすることじゃない。俺はもう慣れてるから……。――それにサフランに……いや、タナには期待してるんだ。必ずこんな事を全て終わらせてくれるって……」

 タナは青年のオレンジ色の瞳を見つめた。意味はよく解からなかったが、彼が大丈夫と言っているので、本当に大丈夫なのだろう。

 そう考え、青年の手を強く握って頷いた。

 二人一緒に牢から出て、薄暗い廊下を進む。看守の男性の姿が見えなかったが、すぐに戻ってくるだろうと思い、それ以上考えるのをやめた。

 壁にかかっているランプの明かりに、青年の金の髪がユラユラと輝く。

 それに見惚れていたタナは、急に青年が立ち止まったのに気付かず、思い切り彼にぶつかった。
 謝ろうと口を開きかけたが、青年は全く気にせず廊下の先の闇を見ていたので、タナもそちらを向く。廊下の壁にもたれる様に立っている人物を見て、開きかけた口を閉じた。

「サフランを何処に連れて行くの?」

 壁から離れ、ゆっくりと明かりの下に出てくる。闇の中から出てきた人物は、黒髪に深い緑の双眸の、タナをここまで攫ってきた女性、セルジュだった。
 青年は彼女の後ろに看守がいるのに気付いた。
 きっとセルジュに脅されて、青年が何をしようとしているのかを話してしまったのだろう。
 青年は全く怒っていなかったが、彼が睨みつけているように見え、看守は何度も頭を下げ、涙声で謝った。

「すみませんー! セルジュさんが無理やり…!」
「気にするなよ。バレるってわかってたんだし」

 青年が明るく言うとセルジュも似たような事を言った。

「そうよ、気にする事ないわ。責任は全て彼に取ってもらうんだから」

 セルジュは腰から下げている細身の剣を抜いて構え、背中の大きな黒い翼を広げた。

「あいつが貴方を脅して牢の鍵を奪い、サフランを逃がそうとした。私はそれに気付き、裏切り者を始末した……。そうでしょ?」

 にやりと笑って言う彼女を見て、青年はタナの手を離した。同じように腰の剣を抜いて構える。

「何とでも好きな様に話を変えてくれても構わない。だが、そこは退いてもらう」

 彼の冷たい声に全く怯むことなく、セルジュは駆け出した。

「出来るのならやってみなさいよっ!」

 一直線に向かってくる彼女の剣を受け止め、上へと払い上げる。その行動は予測していたのか、彼の力を利用して後ろへと跳んで距離を取る。
 床に着地したのと同時に翼をはためかせて風を起こし、黒い羽根と共に真空刃を飛ばした。
 青年は避けることなく、その場から全く動かず剣で真空刃を打ち消す。そして舞い散る羽根の中を駆け抜けた。

 ほんの一瞬だった。
 青年が駆け出してからセルジュの耳元で風が起きたのは。

 風の唸り声が耳に届き、それから一拍おいてドサリと床に何かが落ちた。落ちたものを見て、セルジュはがっくりと膝をついた。

「悔しい……。どうして精霊なんかの力を借りてる奴に勝てないの…!」

 床に黒い羽根を撒き散らしている自分の翼を見て叫んだ。

「私たち魔族は、自分の力を信じられなくなったら終わりなのよ! なのにあんたもサフランも…!」

 青年は剣を腰の鞘に戻してセルジュを振り返った。

「終わりなんかじゃない。自分の力を最大限に引き出す為なら精霊の力だって借りる。俺たち魔族と精霊、そして人間は同じ世界に生きているんだから」
「……っ!」

 セルジュは黙って俯いていた。

 力強く握り締めていた両手をゆっくりと開き、すっくと立ち上がる。
 くるりと青年を振り返り、びしっと指を突きつけた。

「いいわ、今回は私の負けよ。潔くここから退くわ。だけど私は何度でもサフランをアビス様の元へと連れて行くんだから」

 負けず嫌いな彼女の言い方に青年は苦笑いを浮かべた。

「ああ、構わないよ。その度に俺はサフランをここから助け出すから」
「言ってなさいよ。そのうちあんたもあいつみたいに陰気な牢屋の看守とかやらされるんだから」

 このセリフに今まで黙って様子を見ていた看守は泣き叫んだ。

「セルジュさんまでそんな事を言うんですか!? 一応僕、この仕事に誇りをもっているのに……」
「たとえでしょ!? 全く……」

 大きく溜息をついてセルジュはタナの方を向いた。

「精々逃げることね。私以外の奴に捕まったりなんかしたら許さないわよ。――また会いましょう」

 小さく微笑んで、彼女は空気に溶けるように姿を消した。
 セルジュの気配が完全に消えて、青年がタナの側までやってくる。

「行こう。セルジュとやり合っていたから大分時間がかかってしまった。すぐに追いつかれてしまう」

 タナの肩に手を置いて言った。そして看守の方を見る。
 彼は泣いているような笑顔を浮かべて深く頭を下げた。

「あとは僕に任せて下さい。お二人ともご無事で」

 青年はタナの体を抱きかかえた。背中から黒く大きな翼を広げ、宙に浮く。
 何度か空打ちさせて、彼はタナを抱えたまま、薄暗い廊下を飛んでいった。
 廊下の窓を破り外へ出る。

 どうやらここは一国の王城で、足元には城下町が広がっていた。
 天に輝く紅い月を見上げ、タナは青年に尋ねた。

「ここはどこなの?」

 空を駆け抜け、城下町から大分離れてから青年はタナの質問に答えた。

「ドーラ国……今は魔族の王が支配している国だ」
「サフランって何? それ、僕のことなの?」

 二つ目の質問に、青年はタナを見て苦笑いを浮かべた。

「まだ知らなくていいことだ。さぁ、家へと送ろう。住んでいる処はどこかな?」
「……カナムーン国」
「了解した」

 ばさっと翼をはためかせ、青年は再び空を駆けた。タナは一度だけ城下町とその奥にそびえる城を振り返った。




 アリーネは城の廊下を足早に進んでいた。手に一冊の本を握り締め、王宮魔道士に声をかけていく。

「これからタナを救出しに行きます。皆さん準備をして下さい」
「どういう事ですか、アリーネ様」

 彼女の声に一人の魔法使いの青年がアリーネの側に駆けてきた。

「タナは魔族に攫われたのでしょう? とすると、彼がいる場所は魔族の本拠地のドーラ国……。船で約七日はかかるんですよ? 一体どうやって……」

 アリーネは青年の言葉を遮って、手にしていた本を見せた。

「……これは?」
「私の兄から預かった物です。この本には様々な魔法が載っています。中には兄が研究している魔法も――」
「まさか…!」

 アリーネが何をしようとしているのかが簡単に分かり、青年は驚きの声を上げた。

「まだ実験途中ですが、今は一刻を争います。私はこの転移魔法を使ってタナを助けに行きます」
「転移魔法!? そんな無茶です!」

 青年が叫ぶが、アリーネは全く平然としていた。

「無茶は承知です。でもやるしかないんです。タナが魔族の手に渡ったらこの世界は魔族に完全に支配されてしまいます。あの子は私たち人間の希望なんですから……」

「――分かりました。今すぐ準備に取り掛かります」
「有難う」

 アリーネに一礼し、青年は廊下を駆けていった。入れ替わりにこの国の兵が一人駆けてくる。

「アリーネ様、大変です! ま、魔族が…!」
「場所は何処!?」
「中庭に向かっているみたいです。それで……」

 兵士の言葉を最後まで聞かず、アリーネは中庭へ駆け出した。同じように中庭に向かっている兵士たちをすり抜け、アリーネは中庭に到着した。

 中庭にある噴水は今は止まって静かだった。
 紅く丸い月が天高くに昇っており、王妃が大切に育てている薔薇を更に赤く照らしていた。
 アリーネより後からやってきた兵士たちは、彼女から距離をおいて立っている。
 静かな中庭をアリーネはじっと見つめた。

 急に風が起こり、薔薇と彼女の黒い髪をはためかす。闇よりも黒い羽根が舞い始めた。
 大きな羽音を立て、短い金の髪の青年が、ゆっくりとアリーネの目の前に降りてきた。青年の腕には黒髪の少年が抱えられている。

「タナ!」

 思わずアリーネは彼の側へ駆け出した。彼女に気付き、少年もアリーネの元へと駆けてくる。

「無事で良かった……」

 力強く少年を抱き締めてアリーネは金髪の青年を見た。青年はじっとアリーネを見つめており、彼女と目が合うとゆっくりと口を開いた。

「貴女は、アイオンの血縁者か……」
「え?」

 アリーネは首を傾げたが、青年は微笑んだだけだった。

「タナを頼みました……」

 背中の黒い翼を広げ、彼は宙に浮かぶ。タナはアリーネの手を握って彼を見上げた。

「お兄さん、名前は?」
「     」

 青年の声は風の音に紛れてしまったが、タナの耳にはきちんと届いていた。
 青年は軽く手を上げて月へと向かって空を駆けていった。

「アリーネ様、逃がして良かったんですか?」

 彼女の側にやってきた兵士の一人が言う。アリーネは兵士たちを見て微笑んだ。

「ええ、彼はきっと私たちの味方ですから」

 そう答え、タナと共に青年が飛んでいった空を見上げた。
 紅い月が静かに輝き続けていた。



 〜END〜






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