――よく聞いて
柔らかい声が聞こえてきて、顔を上げる。
温かな手が、頬を包み込む。
――困っている人がいたら、必ず助けてあげるのよ
目線を合わせて微笑む。
今まで忘れたことのない、優しい笑顔。
――どんな人でも……世界の全てを敵にまわしている人でも
――必ず助けてあげてね……
急に辺りが真っ暗になり、慌てて周りを見渡すが、先程までの優しさと温かさはどこにも見当たらなかった。
――私の言葉を、いつまでも忘れないで……
(……母…さん……)
「うりゃーっ! 起きろパッセーーーッ!!」
むぎゅっ、と押し潰され、パッセは思わず咳込む。目を覚まし、ゆっくりと起き上がると、自分の上から何かが落ちた。
「きゃっ…!」
床に落ちたものを見て、パッセは首を傾げる。
「ジュネさん……。何をしているんですか?」
床に転がっている茶髪の少女はすっくと立ち上がり、物凄い剣幕で彼に近付く。
「起こしてあげたのにその態度はないでしょ? まだ寝ぼけて……」
襟元を掴んでまくしたてようとしていた少女は、彼を見て言葉を切る。
「どうしたの? 怖い夢でも見たの?」
パッセが座っているベッドに乗り、目線を合わせて少女が尋ねてくる。パッセは自分の頬に手を当てて泣いていたのだと知る。
「母の……夢を見ました……」
「シアン様の?」
柔らかな声に温かな手。
未だ薄れぬ記憶にある母、シアンと同じだった。
「ジュネさんも母を知っているんですか?」
「まあね、有名だし」
ベッドから降りながら答える。パッセはじっと少女の後ろ姿を見つめていた。
「多くの人々を救ってきた大魔法使いシアン=ウィステリア……。彼女の一人息子があんただって知った時はショックだったけど」
「え…?」
ジュネはくるりと振り返り、パッセに指を突きつける。
「あんたみたいな情けない奴が、あの偉大なシアン様の子供だなんて思えないじゃない!」
「……すみません……」
「何謝ってんのよバカ!」
ビシッとパッセの額にデコピンをする。あまりの痛さに彼の青い瞳には涙が浮かんでいた。
「ほら、さっさと用意する! お昼までにはスクリットまで行くんだから」
ベッドから降りかけたパッセは、ジュネの言葉に動きを止めた。ぎこちなく首をジュネの方へ向ける。
「ほほほ本当に行くんですか……?」
顔を青くして尋ねるが、ジュネはそんな彼にお構いなしの表情で頷く。
「当然よ。スクリットの町の側にある山にはお宝が眠っているって言うじゃない。是非そのお宝を拝んで、もし手に入れれそうならあたしの物にしないと」
「でもだってスクリットの町にはユーレーが出るって…!」
「いい年した男が幽霊くらいでビビってどうすんのよ!」
「お宝のある山にはアンデット系の魔物がウヨウヨって……」
「あんた、もしかしてそんな話ばっかり聞いていたのね……」
「はいィ……」
ベッドに座っているパッセの正面に立ち、ジュネは彼の襟元を掴んで思い切り揺さぶる。
「アンデット系の魔物が何よ! パッセの魔法でイチコロでしょ!?」
「で……でも僕……浄化系の魔法……使えません…って苦しい……」
ガクガクと揺らされ、パッセは更に顔を青くして答えた。ジュネは手を離して彼をじっと見つめ、そして冷たく言い放った。
「情けな……」
嫌がるパッセを半ば脅しつつ、ジュネは乗り合い馬車に乗り込んだ。
北の山岳地帯にある町、スクリットまで馬車で三時間程。途中で馬車から降りて山を登らないといけないので計四時間位はかかる。
朝一に出発してお昼までに到着し、スクリットの町の名物の山菜料理をランチとして食べようとしていたジュネだったが、パッセがあまりに嫌がって出発が遅れた為、それを諦めるしかなかった。
馬車の窓からの景色に、どんどん緑が増えていく。広い田園地帯を進むと、新緑の山並みが遠くに見えてきた。
「お嬢ちゃんたちもスクリットに行くのかい?」
ジュネの隣に座っている年老いた女性が何気なく尋ねてきた。牡丹色の厚手のショールを頭から被り、ニコニコとジュネとパッセを見つめている。
窓の外を眺めていたジュネは座りなおして女性と向き合った。
「うん。噂の幽霊を見に」
幽霊という言葉にパッセが身震いしたが、あえて無視する。
「スクリットには多くの幽霊が出るから気を付けてね。真夜中にどの宿にも凶悪な幽霊が現れてね、旅人を襲うって話だよ」
「え゛……」
パッセの息を呑む音が馬車の中に響いた。振り返って彼を見ると、青いのを通り越して、顔は真っ白になっていた。ジュネは溜息をつき、馬車に乗っているほかの客を見る。
少し前から笑いを堪えている辺り、どうやらこの話は、お婆さんが旅人を驚かして楽しもうと作った作り話だろう。
ジュネはもう一度深く溜息をつき、再び窓の外に目を向けた。
馬車から降り、なだらかな坂道を進む。馬車に乗っていた人の全てがこの先のスクリットに向かうので、ジュネは色々な話をしながらのんびり歩いていた。
「物好きだね、君」
ジュネの隣を歩いているスクリットの町の役人らしき黒髪の眼鏡をかけた男性は、歩調をジュネに合わせて親しく話していた。ジュネの方は何か情報がないかと色々と聞いて回っている。
「ジュネさ……ん……」
「うん。でもあたし、幽霊とかってあんまり見たこと無いから」
「……待っ……」
「で、幽霊ってどんな感じ? やっぱ凶悪なの?」
青年は一度振り返って苦笑いを浮かべ、ジュネの質問に答える。
「明るいうちは町中をフラフラするくらいだけど、夜は宿から出ると危険だよ」
「え? それっておばあさんが言ってた作り話じゃないの?」
先程のお婆さんの話のとき、他の町の人たちは笑いを堪えていたので、てっきり作り話だと思っていたが。
「あの婆さんはよく作り話で旅人を驚かしたりするけど、あながち違うとも言えないんだ。宿に現れるかはともかく、夜はアンデット系の魔物が現れるから注意した方がいいよ。町の外では毎日のように騒いでるからね」
「詳しいね」
「君も窓から見てみるといいよ。俺なんかこの町に初めて来たとき、気になって、窓の外を見て三日ほど寝込んだし」
「……遠慮する……」
何故明るく言えるのかわからなかったが、きっと彼は慣れたのだろう。
ふと後ろを振り返り、青い髪の青年を見る。パッセとはかなり距離が離れていて顔まで見えなかったが、間違いなく恐怖で足がすくんでいるのだろう。
「町が見えてきたよ」
青年の言葉にジュネは視線を戻す。
坂道の先に僅かに石造りの柱が見えてきた。多くの木が重なるように町の周りに立ち、その間を縫うように石の壁が建っている。
坂道を登りきってジュネは足を止めた。
二本立つ石の柱の門を白い半透明な人間が行ったり来たりとフラフラしている。町の中では幽霊が子供たちを驚かして楽しんでいた。
(これは……パッセじゃなくても嫌かもね……)
ジュネは少し先を歩いている青年に声をかける。
「ねえ、この町って何時からこんな幽霊の町になったの?」
ジュネの声に青年は足を止めて振り返る。
「十五年くらい前かなぁ……」
「そんなに最近なの?」
「俺は五年位前にこの町に来たからさ、あんまり詳しい事は解からないんだ」
「ふうん」
「何だったら後で役場においでよ。この町の事を調べたらいいよ」
「うん、そうだね。そうする」
頷いてジュネは歩き出した。黒髪の青年と共に石の門をくぐる。
途端、何かが弾ける大きな音が町中に響き渡る。
隣を歩いていた青年は、ジュネをまじまじと見つめていた。
「あれ……ジュネさん、どうやって元に戻ったんですか…?」
背後からパッセの声がして、ジュネは鞄から手鏡を取り出し、自分の姿を映す。手鏡には赤い双眸の金髪の女性が映し出されていた。
自分の姿を見てにっこりと微笑み、ジュネは黒髪の青年を見る。
「ねえ、この町、何か結界を張ってあるの?」
「え? ええ。アンデット系の魔物が町中に入り込まないように……」
「その結界は誰が?」
「町長のお孫さんですけど……」
「町長の家は?」
「この道を真っ直ぐ行った所に花壇があります。そこのお屋敷です」
「ありがと。パッセ、行くわよ!」
「は、はいっ!」
坂道を登ってフラフラだったパッセだが、珍しく素直にジュネの後を追う。黒髪の眼鏡をかけた青年はじっと二人を見送っていた。
町長の家に到着したジュネとパッセは、町長の孫の、赤い髪のジュネと殆ど年の変わらないチェリーに手短に事情を話して、町の結界の事を尋ねた。
中々信じてくれなかったので、二人はチェリーを連れて石造りの門のところまでやってきた。
「いい? そこで見ててよ」
チェリーとパッセにそう言ってジュネは町の外へと出る。
キィン……と澄んだ音が響いたあと、ジュネの姿は茶髪の少女へと変わっていた。
「まあ……」
チェリーは目を見開いて彼女を見ている。ジュネはきれいに回れ右をして門をくぐって二人の側へと戻ってきた。
「面白い特技をお持ちで」
コロコロと笑い出すチェリーを見て、ジュネは思わず溜息を零す。パッセの方は先程から辺りをキョロキョロと見回し、白い幽霊が見える度に小さな悲鳴を上げていた。
「それで、この結界を応用して、長い間呪いを打ち消しておきたいんだけど……」
この結界で呪いを一時的に消す事ができれば、わざわざパッセの魔力を奪わなくても済むし、一人で行動する事もできる。
ジュネはそう考えていたが、チェリーの言葉にその思いも砕け散った。
「無理ですね。そもそもこの結界は地的に効果を表すものでして、動く物にはかけることができません。この結界の効果は邪なるもの、力の弱いアンデット系の魔物の侵入を防ぐ為ですし。何故ジュネさんの呪いの効果を打ち消しているのかがわかりませんし」
「やっぱり……。あーあ。あの変な女と戦うときだけでも使えればいいのに……」
盛大に溜息をついてジュネは頭の後ろで手を組む。それを見てチェリーは小さく微笑んだ。
「魔物と戦う時にこの結界を張り、その結界の中で戦うっていうのはどうですか? 結界に必要な道具は消費されますが……」
「で、どうやるの?」
ジュネは目を輝かせてチェリーに詰め寄る。チェリーはにっこりと微笑み、ジュネに結界の張り方を告げた。
「まず必要な材料を集めてください」
チェリーの言葉を一文字も聞き逃すまいと真剣に彼女を見つめる。
「何も混じっていない虹水晶を一キロと青薔薇20本。それと純血のエルフ、それも清らかなる乙女の血を一滴、それから――」
「あ゛ー、もういい。諦めるから……」
「そうですか? 残念ですね。きっとお役に立つと思うのですが」
どうして? と尋ねてくるチェリーに、ジュネは肩を落として答える。
「それだけのレアアイテム、集めるのは無理よ。それに純血のエルフが何処にいるのかも解からないし……」
「そうですよね。無理ですよね」
解かるわかると頷くチェリー。ジュネはそんな彼女を見て、ある事に思い当たった。
「ね、この町の結界はどうしたの? どうやってそれだけの材料を集めたの?」
山間の小さな町で、それだけのレアアイテムが手に入るとは思えない。買おうとしても、この町を買い取れる程の金額がかかる。
一体どうやって手に入れたのか。
(もしかしてこの町の特産物なんじゃあ……)
何となくジュネはそう考えた。他に思い当たらなかったからでもあるが。
「とある旅の方が、この結界を張るようにと全ての材料を譲って下さったんです」
「でも何でこの町にわざわざ大金はたいてまで結界を張ったのかしら。普通は幽霊やアンデット系の魔物から身を守る方法だけ教えて、あとは自分たちで材料を集めなさいって言うでしょう?」
少なくともジュネはそうだ。見ず知らずの他人の為に大金を使おうとは思えない。
ジュネは尋ねたが、チェリーは首を横に振った。
「実は、この結界は町に幽霊やアンデット系の魔物が現れる前に張ったものなんです」
ジュネは彼女の言葉に耳を疑った。
「……どういう事?」
「旅の方がこれから暫くの間、ご迷惑をかけるからと、町に結界を張るようにと全ての材料をくださったんです」
「それ、おかしくない? 幽霊とかに困っているから助けるっていうのならともかく……」
迷惑をかけるとわかっておきながら、何故結界を張るだけしかしなかったのか。
(もしかして、この町や山に何か隠してるんじゃ……)
この町の側の山に眠る宝と言う噂より、そちらの方が妙に信憑性がある。
ジュネはすぐさま目的を変更してチェリーに尋ねた。
「その旅人ってどんな人なの?」
「えっと、青い髪の優しそうな人だと母が言ってました」
「え……」
ジュネは無意識に幽霊に追いかけられている青い髪の青年を見る。
(……違うわ。チェリーは女性だって言ってないし。青い髪の人なんて沢山いるし……。それに町の人に迷惑をかけるような事をするとは思えない……)
「った!」
パッセの激突を食らい、ジュネは思わず倒れそうになる。だが、背後に回りこんだパッセから背中を支えられた。
「ちょっ……パッセ!?」
顔だけ後ろを振り返ると、パッセは顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。
「じじじじジュネ……ささん……あ…あれ……」
ガクガクと震える手である方を指差す。ジュネとチェリーはパッセの示した方向、町の門を見た。
「何あれ。死霊犬…?」
町の外、門の側に青白い炎をまとった体の大きな犬がいた。黒い瞳を三人に向け、低く唸っている。
耳の近くまで裂ける口の間からは、大きな牙が数本見えていた。
ゆっくりと町へと近付いてくる死霊犬の後ろから、一匹、二匹と同じ魔物が姿を現す。
それを見て、ジュネの背後に隠れていたパッセは顔を真っ白にして地面に座り込んだ。
「あ! ちょっとっ! 立場が逆じゃないのっ!! 何でこんなか弱いあたしが……!!」
「来ますよ…!」
チェリーの緊張気味の声にジュネは視線を戻した。
先頭にいた死霊犬が猛スピードで駆けてきて結界に体当たりをする。
バキバキ! と結界にヒビが入る音が響き渡り、町の人たちは窓や扉から顔を出して素早く家の中に引っ込んだ。
「何よぉ……。アンデット系の魔物は夜にしか現れないんじゃないの…?」
隣りに立つチェリーを目だけ動かして見る。
「分かりません……。こんな事は初めてで……」
チェリーは慣れていないのか、大分青い顔をしていた。
再び体当たりをしてくる死霊犬。結界が崩れていくのがジュネにも判った。
「チェリー、浄化系の魔法は使えるの?」
魔法使いであるパッセが戦闘不能でまるきり役に立たないので、ジュネが尋ねると、チェリーは力強く頷いた。
「ある程度は使えます」
視線を門へと向ける。死霊犬から目を離さずに口を開く。
「いい? 死霊犬が結界を破ったのと同時に魔法を放つのよ」
「はいっ」
チェリーは呪文の詠唱に入る。ジュネはじっと死霊犬を見ていた。
再度体当たりをしてくる死霊犬。だが今度は結界に跳ね返される事はなく、結界を突き破り、町の中へと着地した。同時に後ろに構えていた数匹の死霊犬がなだれ込んで来る。
「今よ!」
ジュネの合図にチェリーは淡い黄色の光に包まれた。
「聖なる力を持って、死せるモノを天へと還らせたまえ!」
光が溢れ、死霊犬たちを溶かすように消していく…………はずだった。
プスーッ、と空気が抜けるような音がし、チェリーがヘナヘナと地面に座り込む。ジュネは目を見開いてチェリーを見つめた。
「す…すみません……。今朝、結界を強化したせいで、魔力が……」
彼女の顔が青いのを通り越して土気色だった。
地面に座り込んでいるチェリーとパッセを見て、ジュネは理性を吹き飛ばしてしまった。
「なんて情けないの! あんたたちはッ!!」
チェリーの魔法が空振りに終わったあと、襲ってくる死霊犬をジュネが命からがら追い払った。
死霊犬たちが消えたのと同時に町の人たちがそれぞれ出てきて、チェリーとパッセを町長の家まで運んでくれた。
死霊犬を追い払った勇敢なジュネを称え、それと同時にジュネとパッセの歓迎会も行われ、町長の家はちょっとしたパーティーになっていた。
チェリーとパッセが町長の家に運び込まれたあと、ジュネは町を見て回り、自分の力でも何とかなりそうだったので町の結界を張り直しておいた。
明日の朝、チェリーが結界を張り直すまではもつだろう。
遠くの木々の間からこちらを見つめている死霊を完全に無視して、ジュネは町長の家へと向かった。
ジュネが家に到着した時にはすでに酒が回っており、町長の家は宴会騒ぎだった。
死霊犬との戦いのときは気を失って戦闘不能だったパッセは、宴会場と化した広間で、町の人たちと酒を飲みながら楽しそうに話していた。
ジュネはこっそりとパッセの背後に行き、彼の首に腕を回して力を込める。
「ぐぇっ……」
「何のん気にお酒なんて飲んでるのよ! 大事な時は全然役に立たないで!!」
「ぎゃ…すみ……ませんー……」
涙声で謝る彼に仕方なくジュネは腕を離す。喉を押さえ、咳込みつつパッセは彼女を振り返った。ジュネは彼の正面に座り、料理に手を伸ばす。
町の人々がジュネに先程の死霊犬の事を聞こうと集まる。だが急にパッセがジュネを見て小さく悲鳴を上げる。その悲鳴に一同はジュネを見た。否、ジュネの背後を見て、それぞれが悲鳴を上げて広間から出ていく。
ジュネは後ろを振り返って何が起きたのかを見た。
何時の間に背後に立っていたのか、水色の髪を背中まで伸ばし、同色の瞳を持つ女性がいた。ただし、彼女の身体はかなり透けていた。
「で、出たーーッ!」
「幽霊だっ!」
我先にと慌てて逃げ出す町人たち。パッセも彼らと共に顔を青くして広間の扉の側まで逃げていた。
「ちょっと待ってよ。あたしが結界を張り直したんだから、この幽霊は敵意を持っている訳じゃないわ」
ジュネは思わず立ち上がって言う。
「何故そう言えるんだ!」
町人に尋ねられ、ジュネは一度女の幽霊を振り返る。
「だから、あたしが結界を張り直したのよ。あの結界は悪霊は通り抜ける事ができないのよ」
そう言って椅子に座り直す。ジュネは女性の幽霊を見て口を開いた。
「何か話したい事があるんでしょ?」
こう尋ねると女性は頷いた。
「誰に話なの? ――え?」
すっと上げられた手は、真っ直ぐジュネを示していた。
「あたし? ……なら後にしてよ。じゃないと飢え死にしちゃうわ」
フォークを取って料理に手を伸ばすと、女性の幽霊は姿を消した。
それを見届けて次々と町人が戻って席につき、再び宴会を始める。一番最後にパッセが戻ってきながら口を開いた。
「話ってなんでしょうね」
グラスに手を伸ばした彼の手を、ジュネは素早く叩く。
「った! 何するんですか!」
「あんた、死霊犬の時といい、今といい、何でこんなか弱いあたしをほったらかして先に逃げるの?」
「誰がか弱いんですか……」
思わず零れた科白をジュネが聞き逃す筈がなく、手に持っていたフォークを投げつける。フォークはテーブルの上に置いていたパッセの左手のすぐ横に突き刺さり、明かりを反射して煌いた。
「…………」
冷や汗を流しながらフォークを見つめるパッセ。そんな彼を無視して、ジュネは食事を続けた。
それから半時程して、町の人々はそれぞれ帰り始めた。
後片付けをしていた一人の女性が、ジュネとパッセの側にやってくる。
「今、町長に話して来たんだけど、良かったら今日はここに泊まって行ったらどう? チェリーはまだ寝てるし、町長はもう年だしねぇ……」
女性の言っている事にジュネはすぐに理解して頷いた。
「じゃあお世話になろっかな。チェリーの事も気になるし……」
ジュネは立ち上がり、パッセに言う。
「パッセ、あたしはこれから役場に行ってくるから。チェリーと町長の事、頼んだわよ」
「へ……?」
町の女性が淹れてくれたお茶のカップを持ったまま、ポカンとジュネを見るパッセ。そんな彼に構わず続ける。
「日が暮れる前には戻ってくるけど……。何かあったら頼むわよ」
あからさまにパッセが嫌な顔をした。
だが、彼が何かを言い返す前に、ジュネはにっこり微笑んだ。
「任せたわよ」
笑みに怒りを込めている彼女を見て、パッセは嫌々頷いた。ジュネは軽く手を上げて部屋を出て行った。
彼女の姿を見届け、パッセは何も起きない事を祈りつつ、お茶を飲み干した。