02:異空間の迷い子たち 「ああ……肖像画のマリアード王女の美しさは罪だ……」 人気の無いカナムーン城の廊下を歩いていた青年は、そう零して足を止めて項垂れた。 日の光にキラキラと輝く、肩まで伸ばした細い銀の髪が溜息と共に揺れる。 金糸で縁取られた丈の長い青の上着と黒のズボン。上質な革が使われた黒のロングブーツ。腰には細い片手剣を下げていた。 城内での帯剣は一般的な貴族には許可されていない事から、青年の地位がかなりの上だというのが見て取れる。そもそもこの国の人間ならば、服装を見るよりもその煌びやかな銀髪で、すぐさま誰なのかを知る事が出来るが。 「……兄上、反省という言葉を覚える気は…?」 隣を歩いていた似たような格好をしている青年は、足を止めて短い銀髪をかき上げた。そして形の良い眉を吊り上げて、自分よりも背の高いはずの兄を冷ややかに見下ろす。 「無いな」 しかしその冷たい視線をものともせず、まるでふんぞり返るかのように偉そうに答えた兄に、青年は溜め込んでいた息を盛大に吐き出して辺りを見渡した。 今日はマリアード王女の誕生日の祝いとして、この国に先程到着したばかりだった。 先に国王と王女に挨拶をし、夕方到着する隣国メサム国女王陛下とその夫の王宮騎士団長、そして自分たちの妹である第一王女を迎える予定だった。 しかしカナムーン国王よりも愛しいマリアード王女に会いに行こうとする兄、エルスについて廊下を歩いていた時、何気なく兄が見つめていた王女の肖像画が襲いかかってきたのだ。 肖像画とは言え、マリアード王女が襲い掛かってくるものだから、エルスは当然のごとく攻撃が出来ず、挙句助けようとした弟ソリューネに、 「マリアード王女を傷付けるな!!」 と寝ぼけたことを言って動きを封じようとした為、二人揃って肖像画に取り込まれてしまったのだった。 二人がいた場所は一般に開放されている一階ではなく、王族や使用人くらいしか立ち入る事の出来ない場所だった為、二人が肖像画に取り込まれたところを目撃した人はいないだろう。待っていても助けが来ることはまずない。 肖像画の中は先程まで二人がいた城内と何も変わりがなかった。違う所といえば二人以外に人の気配がしないと言う事だ。鳥のさえずりや城下町の賑やかさも全く聞こえてこない。 「さっき城下町に魔物が現れたっていう話を聞いたから、その時に入り込んだのかな……」 カナムーン城には優秀な魔道士が何人も在任している為、簡単に魔物や魔族が城内に入り込めないように結界が張られてある。 少し前に城下町で魔物が現れた時に、その結界が微かに緩んだのかも知れなかった。 「タナが城下町に下りて行ったらしいし……」 この国でかなりの力を持つ王宮魔道士の青年の名前を口にする。しかしソリューネの口調は決して彼を責めているものではなかった。 魔物が城内に入り込んだのは、彼ら王宮魔道士のミスかも知れないが、肖像画に取り込まれてしまったのは明らかにこの兄が悪い。 肝心のエルスといえば、左手は剣の柄に添え、右手は握り拳を作って、ぶつぶつと魔物に対して文句を零していた。 「マリアード王女の誕生日にわざわざやって来るとはそんなに彼女の美貌が羨ましいのか……。 ああっ! マリアード王女っ! 貴女の身に何も起きてなければ良いのですが…!!」 エルスの言葉にソリューネは嫌な予感がした。 彼の言う通り、何故魔物はわざわざ王女の誕生日に現れたのか。 「兄上、マリアード王女が心配だ。早く出口を探して戻らないと」 「そうだな。こんな所でじっとしてる訳にはいかん!」 ソリューネが急かすと、勇ましくエルスが歩き出す。ソリューネも辺りを警戒しながら兄を追って歩き出した。 だが二人はすぐに再び足を止めた。廊下の先に人影が見えたのだ。 エルスとソリューネは顔を見合わせ、気配を殺して人影に静かに近づいた。 肖像画の中に取り込まれたレイニーは、しばらくの間呆然としていた。いきなりの事で混乱し、思考が停止してしまっていた。 ずっと一緒に旅をしていた茶髪の青年の姿が見えない事にようやく気が付き、自分がとんでもない状況に陥った事を悟る。そして止まっていた思考をフル稼働させた。 今まで十八年間生きてきて、異空間に放り込まれた事は一度もない。 こういう時はどうしていいのか分からないが、やはり大人しく助けが来るのを待つのが一番なのだろう。 下手に動き回って状況を悪化させてしまえば、マキに心配をかける程度では済まなくなってしまう。 レイニーは腰に佩(は)いてある剣を両手で握り締めて、気持ちを落ち着かせようとひとつ深呼吸をした。 しかし普段当たり前のように感じていた人々のざわめきや風の音などが一切聞こえない事に、段々と落ち着かなくなってくる。遂にはその場をウロウロし始めた。 「どうしよう……出口を探さないと……」 そう零してしまうと居ても立ってもいられなくなり、とにかく先へ進もうと足を踏み出したその時―― 「貴様がこの空間を生み出した魔族だな!」 「……は?」 急に背後から声が響き、レイニーは振り返った。 いつ現れたのか、廊下の先には二人の青年が立っていた。片方の背の高い青年は剣を構えている。 「魔族って…えぇ!?」 レイニーは思わず後退った。 「あ、兄上!? どう見ても普通の旅人だぞ!?」 もう一方の青年が必死で止めようとするが、剣を構えた青年は聞く耳持たずといった感じだった。 「うるさいソリューネ! 力のある魔族は人の姿をしていると言うだろう!」 「だからって…!」 「マリアード王女に似ているのが何よりの証拠だ!」 それが一番の理由か、とソリューネは内心溜息を吐いた。 魔族がマリアード王女の誕生日に出現するという事は、彼女の美貌を羨んでいるという事。という事は彼女の姿をしていて当然、とこの兄は考えているのだろう。 「兄上! 今朝の陛下のお言葉を全然聞いてなかったのかよ!」 剣を構えたエルスの右手を全力で押さえて叫ぶが、完全にキレてしまっている彼には届かなかった。 「退けっ、ソリューネ!!」 力任せに弟を振り解こうとするが、自分と同じ位に鍛えている成人男性の為、簡単にはソリューネは離れなかった。 何が起きているのかが分からないレイニーは、この隙に逃げ出すかどうか悩んでいた。 向こうの二人は人の事を魔族とふざけた事を言っていたが、彼女は二人の事を良く知っていた。 銀の髪に青い瞳の兄弟。誰もが知っているメサム国の王子たちだ。兄エルスは剣の腕が秀でており、弟ソリューネは剣と魔法を得意とする。 願っても無い助っ人の登場だった。 何とか誤解を解いてこの異空間から脱出する手助けをしてもらわなければ。 しかし頭に血が上っているエルス相手に、レイニーが何かを言っても聞いてはくれないだろう。他力本願だがソリューネに頑張ってもらうしかなかった。 今まさに本気モードの兄弟喧嘩が勃発しようとした瞬間、新たな気配が生まれ、穏やかな声が聞こえてきた。 「エルス王子にソリューネ王子…? それに…」 その声に三人は動きを止め、そちらを振り向いた。 銀髪兄弟の後ろから黒髪の青年が姿を現す。彼の後ろには金髪の少女の姿が見え隠れしていた。 「! タァアナァァッ!!」 一瞬前までレイニーに向けられていたエルスの殺気が黒髪の青年に向かう。 「お前っ! 何でマリアード王女と一緒に…! というか何でマリアード王女を巻き込んでるんだしっかり守れっ!!」 剣を振り回し、ずかずかと青年に歩み寄りながら一気にまくし立てる。しかしタナは涼しい顔をしてそれを綺麗に受け流した。 エルスはタナを押し退け、彼の後ろにいた金髪の娘の手を取る。 「マリアード王女、お怪我はありませんか!? タナの奴が変な事していませんか!?」 顔を青褪めさせてエルスが尋ねると、王女は申し訳無さそうに頭を下げた。長い金の髪がサラサラと肩から零れる。 「ごめんなさい、エルス王子。わたくしの所為で絵に取り込まれ、タナまで巻き込んでしまいました……」 「あわわわ、顔を上げて下さいマリアード王女! 貴女が気に病む必要はありませんよ。タナが側についていながらこんな状況になってしまったのなら、全てタナが悪いのですから!」 「……また勝手な事を言ってるし……」 王女を励まそうと力説している兄の姿に、ソリューネは深々と溜息を吐いた。 エルスによって悪役に仕立てられたタナは、全く気にした素振りもなく、レイニーに視線をやった。彼女は状況が飲み込めないのか、青い目をきょとんとさせていた。 「おいタナ。一刻も早くこの空間から出るぞ」 王女の肩に手を置いてエルスが急に偉そうに言う。黒髪の青年は素直に頷いた。 「そうですね。少し話もしたいですし」 彼の視線に気付いたレイニーと目が合う。タナはほんの一瞬だけ口元に笑みを浮かべて、すぐに目を逸らした。 「……?」 その小さな笑みを見逃さなかったレイニーはドキリとし、何故か青年から目が離せなくなってしまった。 「タナも気付いたか」 青年の隣まで歩み寄り、ソリューネが小声で尋ねる。 「ええ、マリアード様、エルス王子、ソリューネ王子という王族だけの中に、彼女が紛れてますしね」 「兄上も見間違える程、良く似ていらっしゃる……」 タナとソリューネの話に名前が挙がったエルスは、意味が分からないと首を傾げていた。 「それじゃあここから出る方法ですけど。皆さんはここへはどうやって来ました?」 ソリューネとの会話を打ち切り、タナが全員に尋ねる。エルスは首を傾げたまま、腕を組んで口を開いた。 「俺たちはマリアード王女の肖像画だ」 「レイニーさんは?」 「あたし?」 タナの呼び声にずっと蚊帳の外だったレイニーは驚く。同時に自己紹介らしいものはしていないのに、彼がレイニーの名前を覚えていたことにも驚いていた。 しかし今はそんな事を考えている暇も無いので素直に答える。 「あたしは王族の肖像画に……」 「なるほど…僕たちも肖像画に取り込まれましたから……。入り口が肖像画という事は、出口も肖像画でしょうね」 タナがゆっくりと後ろを振り返る。つられて全員もそちらに目をやった。 「ここに来てからずっと後をつけてきている、あの肖像画が本体でしょう」 彼の細く長い指が示した壁には一枚の肖像画がかけられていた。 描かれていたのは紫苑(しおん)の花のような明るい紫色の髪を持つ若い男の姿。男は両手にそれぞれ剣を持っていた。 その人物の赤い目がギョロリと動き出し、二本の剣を構えて額縁から飛び出してくる。 タナは側にいた王女を抱きかかえてその場から跳び退り、エルスとソリューネが瞬時に剣を抜いて、一同に迫った二つの刃を薙ぎ払った。 タナはレイニーの側に王女を下ろし、三人の周囲に結界を張った。直後、背景として描かれていた斧が飛んできて、結界にぶつかり大きな音を立てて床に落ちる。斧は再び浮かび上がり、何度も結界に刃を打ちつけ始めた。 「額縁の方に攻撃を!」 剣戟の音に負けないくらいの声でタナが指示を出す。だがエルスもソリューネも人ならずものの相手で、返事をする余裕すらないようだった。 「ねぇ! 魔法じゃ駄目なの!?」 王宮魔道士の地位を持つタナなら、肖像画を消し炭にするくらい朝飯前のような気がしてレイニーが尋ねる。しかしタナは首を横に振った。 「下手に燃やしたりすると出口が塞がれる可能性があります」 「何だかややこしいんだね……」 魔法で切り裂くのはどうなのだろうとレイニーは思ったが、それも駄目なのだろう。恐らく魔法攻撃が届かない様に結界に守られていたりしてそうだ。 そうなると残るは直接攻撃のみ。 一番の戦力のエルスとソリューネに目をやる。二人は有り得ない方向からの攻撃を、ギリギリ受け止めるだけで精一杯のようだ。 魔法が不可という事はタナは役に立たない。王女に戦わせる訳にもいかない。 レイニーはじっと肖像画を見て頷いた。 「あたしが行ってくる!」 「えっ!?」 レイニーの言葉にタナと王女が揃って驚きの声を上げた。二人とも表情に「無理」だとか「危険過ぎる」と書いていたが、気にせずレイニーは続けた。 「じっとしててもキリがないでしょ? 動けるのはあたしたちしかいないんだし。あの二人だって何時までもつのか……」 目に見えない速さで繰り出される二本の剣に、エルスもソリューネも押されていた。上着は所々が裂け、赤い染みをいくつも作っている。二人が膝をつくのも時間の問題だった。 タナはしばらく考え、仕方なく頷いた。 「――わかりました。くれぐれも気をつけて下さい」 彼の隣で王女が不安そうな表情を未だに浮かべているのが目に入った。 「うん」 腰の剣を抜いて、レイニーは安心させるかのように微笑んだ。 斧が結界を叩き壊そうと大きく振りかぶる。 刃が結界に触れる直前、タナは結界を破壊した。 思い切り空振った為、一瞬の隙が生じる。レイニーはその隙に剣を振り上げて斧を遠くへ弾き飛ばした。 斧の行方などを見る事もなく、素早くレイニーは肖像画へと駆け出す。 斧が再びタナたちに襲い掛かるが、張り直された結界に阻まれ、耳障りな音を響かせただけだった。すぐさま目標をレイニーに変え、回転しながら彼女へと飛びかかった。 「――レイニーさん!」 タナの声と背後から風を切って飛んでくる音に、レイニーは頭を低くして攻撃を避けた。斧は弧を描きながら方向転換し、ブーメランのように再びレイニーに迫る。 レイニーは足を止めて剣を構え、正面から飛んできた斧を叩き落した。そして浮かび上がろうとしたところを、ガッ、とブーツの踵で踏みつける。 「しつこい…!」 身体を曲げて斧を拾い上げると、斧は戦意を失くしたのか、へにゃりと紙のようにペラペラになってしまった。 その斧を持ったまま、レイニーは人物像と戦っている二人の横を駆け抜けて肖像画へと向かった。 それに気付いた人物像がエルスとソリューネへの攻撃を止め、レイニーへと剣を繰り出す。いち早くエルスがそれに反応し、二人の間に割り込んで攻撃を剣で受け止めた。 「早く行くんだ…!」 二つの剣と鍔迫り合いをしながら、足を止めてしまったレイニーを急かす。彼女はすぐに我に返り、「ありがとう!」と礼を言って走り出した。 出会った瞬間はレイニーの事を魔族呼ばわりしていたエルスだったが、何よりも信頼しているタナの作戦だろうと判断し、態度を改めていた。 愛しいマリアード王女が見ているので下手な事が出来ないのが本音だろうが。 そんな兄の姿にソリューネは気合を入れ直し、援護する為に人物像へと切りかかった。 肖像画の前までやってきたレイニーは、足を止める事なく、その勢いのまま剣を振りかぶった。 しかし、ガキンッ! と火花が散っただけで、剣が弾かれてしまう。 たたらを踏んだ彼女は数歩後ろに下がり、体勢を整えて再び剣を振り下ろした。だが再度結界に阻まれ、刃が絵まで届かない。 力任せに結界を壊そうとするが、ギチギチと嫌な音を立てるだけで、全くの無意味だった。 レイニーの様子を離れた場所で見ていた王女は、静かに口を開いた。 「タナ、結界を解いて下さい」 「出来ません」 いつ何処から攻撃が来るとも分からない中で結界を解くのは危険過ぎる。 大切な王女をそんな無防備な状態に晒す訳にはいかない、とタナは反対した。だが王女は語気を強めて再度口を開いた。 「タナ! 結界を解いて彼女の援護をして下さい! わたくしなら大丈夫です」 意思の強さを感じさせる深い青の双眸に押され、タナは思わず言葉を失くした。 幼い頃から付き従っていた王女は、こんなにも強い女性だっただろうか。 ちらりと横目で、未だ結界と格闘している娘を見る。 本当に良く似ている、とタナは内心苦笑を洩らした。 「わかりました」 言われた通りに結界を解き、タナは王女から数歩離れる。そして王女だけを再び結界で守った。 「タナ!?」 王女が驚いた声を上げるが、タナは小さく微笑んだだけだった。肖像画に向き直り、右腕をそっと上げる。 彼を中心に魔力の渦が起こり、彼の黒い髪と黒のマントを大きくはためかせ始めた。 右手に集まった魔力が弾けた直後、肖像画を守っていた結界がバリンッ! と大きな音を立てて消滅する。 それを見たレイニーは、剣を肖像画に突き立てた。剣に体重をかけて一気に振り下ろし、ビリビリとカンバスを切り裂く。 まるで悲鳴のようなその音と共に、人物像が苦しみ出す。がむしゃらに剣を振り回すが、どれもエルスやソリューネには掠りもしなかった。次第にその姿は灰になっていった。 レイニーの剣によって肖像画の切り裂かれた部分から光が溢れ出す。恐らくこの空間の出口だろう。 その様子を結界越しに眺めながら、王女は今方タナがやってみせた事を思い出していた。 魔法使いは防御魔法と攻撃魔法を同時に使う事は出来ない。両方を制御する程の集中力が持たないからだ。試しに二つ同時に使ったとしても、必ずどちらかが疎かになる。 しかしタナはそれを平気でやったのだった。 そんな事が簡単に出来る人物はそうそう居ない。王宮魔道士長クラスなら分からないが、まだ若いタナがそれをこなしてしまうとは。 光と共に溢れる魔力の風に揺れる黒い髪に目をやる。 王女の頭の中に、かつて魔族の王を倒したと言われる大賢者の名前が浮かび上がった。 今から五百年前、魔族の王を倒した大賢者。 黒い髪に黒い瞳をもつ青年。 その名は―― (――アイオン。そしてその生まれ変わり……) 辺り一面に白い光が満ち溢れた。 |