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 一日の仕事を終え、自室のソファーで寛いでいた時、義弟のキリュウがワインの瓶を持って部屋に現れた。
 久方振りの兄弟水入らずの晩酌に、マハタック国王は歓迎して彼を部屋に招き入れた。

 グラスに赤い液体が注がれる。
 水が豊かなサラー国産のワインだろうか。色と香りを一通り楽しんでから、国王はグラスに口をつけた。

 直後――
 ガシャンッ! とグラスが彼の手から滑り落ちて粉々になる。続けてドサリと重い音を立てて王の体が床に倒れた。

「……キリュ…きさ、ま…ッ!」

 喉を掻き毟りながら掠れた声で義弟を睨みつける。
 ワインに毒が混ざっていた。

 誰よりも真面目で、誰よりも己に厳しく、そして誰よりも信頼していた義弟が暗殺を謀るとは信じられなかった。

 遠のく意識の中、国王はキリュウの背から一対の漆黒の翼が生えたのを見た。そして彼の背後からその翼の持ち主の男が姿を現したのが見えた。
 キリュウの目には光が宿っておらず、まるで操り人形のように俯いていた。

 ――ああ、義弟は自分を裏切ったわけではなかった……

 国王の意識はそこでブツリと途切れた。


 キリュウの背後に現れたのは鋼のような長い銀髪を持ち、真紅の双眸を細めて口唇を笑みの形に歪ませた魔族だった。

「ひゃはははっ! 悪いネェ。王女サマは頂いて行くヨ。ここで少しでもポイントを稼いでおかないとネェ…」

 魔王直属の部下のNo.1の座はずっと空席。No.2は戦力外。No.3は真面目に仕事をこなしているがNo.4は所在不明。
 ここでこの国の王女を連れて行けば、自分の印象がぐっと上がるに違いない。
 魔族は笑みを深くして左手を高々と掲げた。

 直後、轟音と強大な衝撃が城を襲った。




 城の至る所から火の手が上がっている。窓から外を見ると城下町も炎に包まれていた。
 炎をまとった黒い影がいくつも空を舞う。
 悲鳴と怒声。そして轟音。

 王妃に手を引かれて、幼い王女は城の廊下を走っていた。先頭を走るのは二人の騎士。彼らが襲い掛かる魔物を薙ぎ払い、道を切り開いていく。
 一行は王族しか知らない避難通路へ向かっていた。

 城全体を揺らす衝撃に、パラパラと瓦礫の欠片が降る。
 廊下の至る所が瓦礫と屍で埋まっており、子供の王女にはかなり走り難かったが、根を上げることなく必死で走った。

 幼いながらも彼女は理解していた。
 例えどんな犠牲を出してでも、自分は生き延びなければならない。
 今ここで城が堕ちても、自分たち王族が生きていれば、また一からやり直す事は出来るのだ。逆にここで魔族に倒されてしまえば、本当の意味でマハタック国は終わりだ。

 肩で息をしながら、王女はひたすら騎士の後を追いかけた。だが、もうすぐ避難通路に辿り着くところで爆発が起き、粉塵の中から人影が現れた。
 バサリ、と羽音が響き渡る。
 炎に照らされて朱に染まる長い銀髪。血のような赤く細い目は真っ直ぐ王女を見ていた。

「見ぃつけタ」

 ニタリと魔族は歪んだ笑みを顔に貼り付けた。

「一緒にアビスサマの元へ来てもらうヨ、王女サマ」
「くっ…!」
「ふざけるな!」

 二人の騎士が剣を抜いて地面を蹴る。勢い良く剣が振り下ろされるが、魔族は手のひらから光の盾を出現させ、あっさりと二つの刃を防いだ。

「お前たちに用は無いんだよ!」

 何処からとも無く剣を取り出し、切りつける。二人の騎士は剣で受け止めたが、剣圧で軽く吹き飛ばされて瓦礫の中に突っ込んだ。


 王妃と王女は騎士が魔族に切りかかった瞬間、避難通路に駆け込んでいた。
 通路には結界が張られてあり、悲鳴や轟音が一気に遠くなる。
 薄暗い通路をしばらく進むと、開けた部屋に到着した。
 床には大きな魔法陣が描かれており、周りの壁に取り付けられている魔法の明かりに照らされていた。

「ネア、魔法陣の中へ…!」

 頷いて王女は魔法陣の中央に立った。
 王妃は近くの台座に駆け寄り、持っていた剣を立てかけてドレスの胸元から小さな袋を取り出した。中に入っている六つの小さな宝石を、台座にある窪みに一つずつ埋めていく。魔法陣がゆっくりと光を放ち始める。

「母上、早く!」

 何らかの魔法――恐らく転移の魔法がそろそろ発動しそうだと悟り、幼い王女が叫ぶ。しかし王妃は台座に両手をつき、息を整えて静かに首を横に振った。

「母上!?」

 魔法陣から溢れる光が強くなり、王妃の姿が霞んで見え始めた。
 王妃は台座に立てかけていた剣を抜き放ち、部屋の入口を振り返った。その表情は、彼女もまたこの国の騎士だと思い出される力強い眼差しだった。

「……元気で、ネア」
「母上ーッ!!」

 魔法が発動する寸前、部屋に飛び込んできた魔族と剣を交える王妃の姿が、一瞬だけ見えた。



 僅かな浮遊感が消えて光が収まった後、視界に映ったのは先程とはまるで違う空間だった。
 足元には避難通路にあったものと同じ魔法陣が描かれていたが、周りの壁は岩肌が剥き出しの壁が一面を覆っていた。

 魔法陣の外には一人の若い女が立っていた。
 長い赤い髪の先端は燃えている。髪に炎がまとわりついているのではなく、髪が炎と化していた。

 目が合うと彼女は赤い目を静かに伏せた。

「……ここは…?」

 掠れる声で王女が尋ねる。女は目を閉じたまま口を開いた。

「ここはマハタック国の火山地帯にある遺跡よ」
「お主は…?」
「……私は大精霊ファイ」

 そこで言葉を切り、女は目を開けて真っ直ぐ幼い王女を見下ろした。

「ごめんなさいね。私一人の力じゃ魔族と戦うことができなくて……」

 その言葉に王女はハッ、と目を見開いて魔法陣から出た。

「マハタック国は…? 父上と母上は!?」

 女に詰め寄りながら悲鳴混じりの声で尋ねる。女ファイは見ていられないと辛そうに再び目を閉じた。

「――マハタック国は……滅んだわ」

 王女の目の前が真っ暗になった。




08:失われし我が祖国


 マハタック国奪還作戦の出発当日。天気は見事に晴れ渡り、航海は順調だった。
 船の上でもやる事のないレイニーは、何気なく甲板を散歩していた。そして船尾付近で黒髪の青年を見つけて声をかける。

「タナ、珍しいね」

 いつもなら船室で大人しく本を読んだりしている彼が、甲板にいるのは珍しかった。

「ちょっと外の空気が吸いたくて」

 微笑んでタナは答える。レイニーはその彼の隣に立ち、少し高い場所にある青年の顔を見上げた。

「タナは一番重要な役目を担ってるもんね…。緊張……してるよね」

 タナの部隊は必要最小限の人数で魔族と戦う部隊だ。メンバーはタナ、マキ、そして完全にサポートしかできないレイニーとカレンの四人だ。
 これにマキが反対しかけたが、レイニーには何を言っても無駄だというのは分かっていたので、渋々承諾していた。

 レイニーを見ていたタナは、青い水平線に黒い目を向けた。

「そうですね。多少は緊張してますし、魔族との戦いも怖くない、と言えば嘘になりますね」

 口ではそう言うタナだったが、彼は不思議と落ち着いていた。


 レイニーはしばらくタナを見つめた後、少し前から思っていた事をそっと口にした。

「タナは…大賢者の生まれ変わりの事、どう思ってるの?」

 かつて魔族の王を倒した黒髪黒目の魔法使い。そして同じ容姿と魔力を持つタナ。
 じっと彼を見つめていると、タナは少し困ったように苦笑した。

「僕は、その事は結構どうでもいいなと思ってます」

 普段の彼からは想像つかない返事が来て、レイニーは僅かに目を丸くした。

「僕が大賢者の生まれ変わりであってもなくても、同じくらいの魔力を持つのなら、それを思う存分使うだけですよ。守りたいものの為に、後悔しないように」

 時代が彼を必要としているのであれば、彼は迷う事なく立ち向かうのだろう。
 結果がどうであれ、己が貫く信念に従って。


 目を合わせて微笑まれ、レイニーはドキリとした。
 彼が守りたいものは一体、と思っていた彼女だったが、濁りの無い黒い目に真っ直ぐ見つめられ、何も考えられなくなる。
 青年の黒の目はまるで晴れ渡った夜空のようだった。見ていると吸い込まれそうになるのに、逸らす事が出来ない。

 タナはそっと腕を上げ、レイニーの頬に手を伸ばして顔にかかる髪を優しく払った。
 彼の細く長い指が触れた場所が熱を帯びる。鼓動がドキドキと早鐘のように鳴り響いてうるさい。
 クラリと目眩を覚えた瞬間、第三者の声が割り込んだ。

「失礼します。タナ様、テニーゼ様がお呼びです」

 やってきたのはルーンアルス国の兵だった。タナは笑みを消して頷いた。

「わかりました」

 兵が一礼して去っていく。タナの視線から外れたレイニーはほっと小さく息を吐いた。

「それじゃあレイニーさん、失礼します」

 頭を下げてタナが歩いていく。それを見届けてレイニーは熱くなってしまっている頬を両手で軽く叩いた。
 手すりに体を預けて、気持ちを落ち着かせるように目を閉じる。
 日の光の暖かさ。風を受けてはためく帆と波の音。頬を撫でる冷たくも優しい潮風。その全てがレイニーの全身に染み渡っていく。
 レイニーはひとつ深呼吸をしてから目を開け、青い水平線を眺め続けた。




 五日後、船は南大陸の南東に無事に到着した。
 そこから一時間程進むと、マハタック国の首都の街並みが見えてきた。遠目でもはっきりと分かるくらい、半年前の襲撃の跡はありありと残っていた。

 城下町に入ると尚更惨劇の酷さを物語っていた。
 建物はほとんどが崩れて瓦礫と化している。至る所に白骨が転がり、雨風に晒されて風化していた。

 一行が街に足を踏み入れた直後、何処からとも無く大量の魔物が姿を現す。
 上空には大鳥。街には黒い毛並みの馬や狼、人の体程の体格を持つトカゲなど。どれもがその身に炎をまとっていた。

 マハタック国を壊滅状態まで陥れた魔族はまだこの国にいる。

 ずっと話し合われてきた事だが、やはり魔族の狙いは王妃か王女なのだろう。一刻も早く助け出さなければ。
 ルーンアルス国とマルスル国の兵が魔物に攻撃を開始して城への道を切り開いていく。
 タナたちは後ろを振り返る事なく走り続け、城門まで辿り着いた。

 ここからは何処にいるのか分からない王妃と王女の救出部隊と、魔族の軍団の頭を倒しにいく部隊の二つに別れることになった。

「城の中も魔物がいっぱいいるんだろうな……」

 嫌そうに顔を顰めながらリュークが呟く。

「リューク、暴走するなよ」

 マキが声をかけると、リュークは力強く頷いた。

「わかってるよ! マックスたちも気を付けてくれ!」

 そう言ってリューク、アナーシャと二人の兵は地下牢への階段へ。タナ、マキ、レイニー、カレンの四人は玉座へ向かって走り出した。



 城の玄関ホールの奥にある階段を上って扉を開けると、横幅の広い廊下が伸びていた。両脇には等間隔に円柱が並んでいる。その柱の影にはいくつかの扉が見えた。
 廊下の先にはまた階段があり、その先には大きな観音開きの扉がある。

「あの先が玉座だ」

 廊下に着いてすぐ、先頭を走っていたマキが足を止めて言った。柱の影から現れたものを見て、腰の剣をすらりと抜き放つ。レイニーとカレンも剣を構えた。

 唸り声を上げながら側の柱から姿を現したのは、青い炎のたてがみを持つ青白い肌の獅子だった。
 体はマキの身長よりも大きい。レイニーの腰くらいの太さがある床を踏みしめる足には鋭い爪があり、食らえばひとたまりもないだろう。

 緊迫した空気がしばらく流れ、マキと獅子が同時に動いた。

 直後、バァンッ! と後ろの扉が勢い良く開き、風が巻き起こる。
 扉の先には玄関ホールは見えず、暗闇が広がっていた。そこから風が吹き、廊下中で暴れ回る。
 四人の間を竜巻がすり抜け、マキに襲いかかっていた獅子を奥の階段まで吹き飛ばした。
 直後、扉の中から無数の漆黒の羽根が廊下に吹き込み、扉の近くにいたタナの体を覆い隠す。

「――タナ!」

 レイニーが青年に駆け寄ると、彼女の周りもまた黒い羽根で覆われた。

「レイニー! タナ!」

 マキとカレンが慌てて駆け寄ろうとするが、爆風に煽られて暴れまわる無数の羽根が二人の進路を塞ぐ。バサバサと羽音が響き渡る。視界だけでなく聴覚まで封じられ、状況が全く分からない。

 その状態が数分続いた後、扉が重い音を立てて閉まり、風がピタリと止んだ。
 宙を舞っていた黒い羽根が床にひらひらと落ちる。
 無数の羽根によって黒く染まった廊下に立っていたのはマキとカレンだけで、タナとレイニーの姿はそこにはなかった。




 城の地下牢に一人の女性が囚われていた。
 背中まで伸びる赤い髪は乱れており、艶を失っている。着ている黒のドレスは所々が切り裂かれていた。そこから覗く腕や脚には、青痣や切り傷がいくつも浮かんでいる。
 ぐったりと床に倒れていたが、彼女の紫の瞳は全く輝きを失ってはいなかった。鋭く細められ、彼女を見下ろす二人の男を睨みつけていた。

「まったく、イヤになるネ…。いい加減本当の事を話せばいいのに」
「くっ…!」

 二人の男のうち、僅かに背の低い銀髪の男が膝を曲げて座り込み、床に倒れる女性の髪を掴んで顔を上げさせた。

「何回言わせるつもり…? ――王女サマは何処にいるんだよ!」

 髪を掴む手とは反対の手で女の顔を殴る。しかし彼女は歯を食いしばって男を睨みつけたままだった。
 男は溜息を吐き、不意に髪から手を離して立ち上がった。



 リュークとアナーシャ、そして二人の兵は地下牢への階段の途中で足を止めていた。地下牢に人の気配がしたのだ。
 気配を殺し、先頭のリュークが様子を窺う。
 三つある牢のうちの一つの扉が開いており、何やら話し声が聞こえる。
 地下牢にあるいくつかの蝋燭の明かりだけでは暗すぎて良く見えない。もう少し近付こうとリュークが足を踏み出したその時――銀色が視界を横切り、リュークの体を吹き飛ばした。

「!!」

 激しい音を立ててリュークが階段から転がり落ちる。
 アナーシャと兵たちは悲鳴を飲み込んで、その場から動けず黙って見る事しか出来なくなっていた。

 一瞬前までリュークが立っていた場所に、いつの間にか一人の男が立っていた。刃のような冷たく鋭利な輝きを放つ長い銀の髪。背には一対の黒い翼。
 男は背を向けていたが、男から発せられている圧倒的な力の前に、アナーシャたちの体は微かに震えていた。

 ――勝てない。

 本能で悟ってしまった。

 魔族はつまらなさそうにリュークを見下ろし、後ろにいるアナーシャたちには目もくれず、牢の中にいる男に声をかけた。

「後は任せるヨ、キリュウちゃん」

 それだけ言って空気に溶けるかのように姿を消した。同時に威圧感が消失する。だがアナーシャたちは違う意味で動けないままだった。

 扉の開いている牢から一人の男が姿を現す。既に抜刀しており、ゆっくりと階段に近付いてきた。
 仄かな蝋燭の明かりに、その姿が浮かび上がる。

「――キリュウ様……」

 誰かが小さく呟いた。

 そこにいたのは国王の義弟であり、王宮騎士団大隊長――この場にいる全員が憧れ、尊敬している人物だった。





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