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 広い部屋に置かれてあるソファーに体を横たえていた若い女は、ピクリと細い眉を動かした。
 瞼を上げ、視線を虚空に彷徨わせながらゆっくりと体を起こす。
 ソファーの近くの床に沢山のクッションを並べて埋もれていた少女は、それを見て膝の上に広げていた本を閉じて側に置いた。

 女は長く赤い髪を気だるそうにかきあげ、赤い口唇をそっと開いた。

「――来たわ……」
「ようやくか…。半年も待たせおって……」

 そう言って少女は大きく伸びをして立ち上がった。




09:紅き炎の申し子


 バサバサという羽音が聞こえなくなり、不意に視界が開けた。
 タナはゆっくりと辺りを見回した。彼がいたのは城の廊下ではなく、壁一面が剥き出しの岩肌の広い空間だった。
 地面には魔法陣。そして側には金髪の娘が蹲っていた。
 タナは地面に膝をつき、彼女の肩にそっと手を伸ばして顔を覗きこんだ。

「レイニーさん、大丈夫ですか?」

 声をかけると彼女は数回頭を振り、顔を上げた。

「大丈夫。ちょっとびっくりして……」

 レイニーの青い目が真っ直ぐ自分を見つめてきた事に、タナは安堵の息を吐いた。

 レイニーに手を貸して立ち上がり、改めて辺りを見回す。出口らしきものは一箇所のみ。
 二人は顔を見合わせて出口へ足を向けた。だが数歩も進まないうちにその出口から足音が聞こえ、大小二つの人影が姿を現した。タナとレイニーは思わず足を止めた。

 背の高い方は若い女性。長い真紅の髪の先端が炎と化している不思議な人物。
 そして彼女の隣に立つのは炎のような朱色の髪を肩ぐらいの長さで切り揃えた少女。裾がふわりと広がっている淡い桃色のドレスを着ており、まるで人形のように愛らしい。
 しかし少女の、朝焼けに染まる空のような紫の瞳には力強い光が湛えられている。その目が嬉しそうに細められた。

「ご無沙汰いたしております、ネア王女様」

 タナが深く頭を垂れてこう言った。レイニーは青い目を丸くして青年と少女の顔を見比べている。

「久しいの、タナ」

 微笑んで少女は黒髪の青年の元に駆け寄り、その腰に抱きついた。タナも小さく微笑んで少女の頭を優しく撫でた。そして顔を上げて若い女性に目を向ける。

「……貴女は、大精霊ファイ…?」

 タナに尋ねられ、女は頷いた。

「ええ。そして魔族の狙いはこの王女様」

 ファイの言葉に幼い王女はがばっ、と顔を上げた。苦しそうに眉を寄せてタナの顔を見つめる。

「タナ…わらわに、マハタック国を救う為に力を貸して欲しい…!」

 今にも零れ落ちそうな涙を浮かべて王女が問いかける。タナは笑みを浮かべたまま頷いた。

「もちろんです。僕はその為にこの国に来ましたから」

 穏やかなタナの声に、王女の表情は一気に明るくなった。

「感謝するぞ! 何ならお主にこのマハタック国の王宮魔道士長の地位を渡してもよいぞ!」
「それはちょっと…」

 元気一杯に言われてタナは小さく苦笑した。


「それじゃあ行きましょうか。あんまりのんびりしてるとお仲間が危険かも」

 ファイに声をかけられ、少し離れた所にいたレイニーが声を上げた。

「マキとカレンが…!」

 炎のたてがみを持つ獅子が襲ってきた事を思い出し、レイニーは俄かに顔を青くした。タナも表情を引き締めて頷いた。
 王女はタナから離れ、魔法陣へ向かいながらぽつりと呟いた。

「ふむ…それは見逃せぬのぉ。マクスレイドがこの半年、どれだけ成長したのか楽しみじゃ」

 彼女のこの言葉にタナとレイニーは驚いて王女を見た。
 容姿は十歳の少女なのに、その口調はまるで長い年月を生きてきた者のようだった。
 魔法陣の中央に立った少女は、黙り込んでいる二人を振り返った。

「何をぐずぐずしておる。早うせんか」

 厳しい口調で急かされ、タナとレイニーは慌てて少女の元へ駆け寄った。二人を一度見上げた王女は、魔法陣の外に佇む女に声をかけた。

「ではファイ、頼む」
「はい」

 頷いてファイは目を閉じてゆっくりと両手を上げる。それと同時に魔法陣が光り始めた。
 ぽっ、と陣の一部に赤い炎が現れ、床に描かれている線の上を走っていく。三人の周りを炎が囲ったが、全く熱を感じることはなかった。
 炎が魔法陣を描ききった瞬間、魔力が弾け、辺りに光が溢れた。
 数秒後、光が収まると三人はマハタック城の玄関ホールに立っていた。




 ガキンッ! と暗い牢屋に火花が散る。
 繰り出されたキリュウの剣を兵が受け止めたのだ。横から別の兵が切りかかる。
 キリュウは受け止められた剣を捻り、剣を交えていた兵の足を払って、横から襲い掛かった兵へと突き飛ばす。切りかかっていた兵は慌てて剣を引いてそれを避けた。

 アナーシャはその隙に階段を駆け下り、倒れているリュークの元へ向かった。彼は頬を赤く腫らして気を失っていた。
 回復魔法をかけようとしたアナーシャだったが、牢の中の気配に気付き、そちらに目を向けた。
 僅かな明かりに照らされた細い体。赤く長い髪。

「――王妃様!」

 アナーシャは小さく悲鳴を上げて走り寄った。
 床に膝をつき、ゆっくりと女の体を抱き上げる。回復魔法をかけるとピクリと長い睫毛が震え、その下から紫の瞳が覗いた。

「……アナー…シャ」
「動いてはいけません!」

 体を起こそうとする王妃をアナーシャは慌てて押し留めた。だが王妃はその手をやんわりと払い、体を起こした。

「…キリュウは……魔族に操られています……彼を、救わないと……」

 そう呟いた直後、轟音が響き渡り、二人の兵が階段から転がり落ちてきた。
 気を失っても尚、しっかりと握られている剣は真っ二つに折られている。脇腹、腕、そして額から赤い血を流していた。

 カツカツと足音を響かせ、キリュウが階段を下りてくる。そして二人の兵の襟首を掴んで、アナーシャと王妃のいる牢の中へ放り投げた。未だ気を失っているリュークも同様に牢の中へ放り込まれた。
 アナーシャははっ、として慌てて鉄格子の扉に駆け寄った。だがキリュウの手から衝撃波が放たれ、彼女の体を軽く吹き飛ばした。

 ガシャン、と金属音を立てて牢の鍵が閉まる。

「お待ちなさい…!」

 王妃が叫ぶがキリュウは全く目もくれず、踵を返して階段を上っていった。




 カレンは左肩を押さえて歯を食いしばり、目の前の光景を睨みつけていた。
 肩を押さえている右手にはぬるりとした温かな感触。深く抉られており、少しでも腕を動かすと意識が飛びかける程に痛い。

 タナとレイニーが消えた後、竜巻に吹き飛ばされた魔物が目を覚まして二人に襲い掛かってきたのだ。
 炎のたてがみを持つ獅子は、その図体から想像がつかないほど俊敏な動きをし、マキを突き飛ばした後、カレンに太く鋭い爪を向けた。カレンはその時に避けきれずに左肩をやられてしまった。

 荒い息を整えながら、魔物と対峙しているマキに目をやった。
 迫る爪を跳躍してかわし、青白い顔面目掛けて剣を振り下ろす。だがその皮膚は思っていたよりも硬く、見事に剣は弾かれてしまった。直後、太い前足がマキの体を殴り飛ばした。
 柱に突き飛ばされたマキは、すぐに体勢を整えて魔物に切りかかる。だが何度切りつけても魔物の体に傷をつける事は出来なかった。

「ぐぁ…っ!」

 マキの体が宙を舞い、カレンのすぐ目の前に落下する。

「おい、しっかりしろ…!」

 肩を押さえたままカレンが叫ぶと、マキは軽く頭を振り、剣を床に突き刺してそれを支えに立ち上がろうとする。だが獅子が咆哮を上げ、太い牙をむき出しにして目前まで迫っていた。

 カレンは左手に持っていた短剣を右手に持ち直し、マキの脇をすり抜けて剣を構えた。
 牙がカレンの体に突き刺さる瞬間、彼の頭上を衝撃波が通り抜け、魔物の体を吹き飛ばした。
 魔物の体が柱に激突し、その衝撃で轟音と粉塵を上げて柱が折れる。

「何じゃマクスレイド。少しは成長しておると思っておったがのぉ…」

 少女特有の高い声に、カレンとマキは振り返った。
 玄関ホールへ繋がる扉が開いており、そこには魔力の風に黒い髪とマントをなびかせて佇む青年がいた。彼の少し後ろには金髪の娘と幼い少女。

「ネア王女様…?」

 マキが紫の目を僅かに見開いて少女の名を呼んだ。幼い少女は腰に手を当て、粉塵が舞う方へと目を向けた。粉塵の向こうに大きな影が浮かび上がる。

「ほれ、何をしておる。あんな雑魚、早う倒してしまわぬか」

 王女に急かされ、マキはひとつ深呼吸をして剣を構え、粉塵から姿を現した獅子に向き直った。
 獅子の青白い肌には傷一つない。先程と同じように切りつけても剣は弾かれるだけだろう。しかしマキは剣の柄をしっかりと握り締めて駆け出した。
 魔物が口を開いて襲い掛かる。マキは剣を両手で握り、真っ直ぐ突き出した。

「マキ!」

 カレンの側に駆け寄っていたレイニーが声を上げる。彼女からはマキが頭からぱっくり食われたようにしか見えない。しかし彼女の腰を、王女の小さな手が軽く叩いた。

「平気じゃよ。良く見ておれ」

 その瞬間、マキの羽織っている白いマントが大きくはためいた。彼の足元から魔力が湧き上がり、光を放っている。直後、獅子の体の内側で爆発が起き、魔物の体が粉々に吹き飛んだ。

「マハタック国の騎士は剣だけでなく、魔法も一通り使えるように訓練されておるんじゃよ」

 そう言って王女は目を細めた。

 白いマントと一つに束ねられた茶色の髪が爆風に煽られてはためいていた。その姿に傷らしきものは見当たらない。
 肩で息をしながら剣を払って鞘に戻し、マキは四人の元へゆっくりと歩いてきた。その姿を見上げて、王女は満足そうに微笑んだ。

「よくやった」
「有難う御座います」

 少女のすぐ側で足を止め、マキはその場で跪いて頭を垂れた。


 カレンの肩の傷はタナの魔法で癒された。傷を塞ぐだけしか出来なかったが、カレンからすればあの痛みが多少和らいだだけで充分だった。
 左手を握ったり開いたりして感触を確かめているカレンを見ていたネアが、不意に口を開いた。

「お主。そしてもう一人」

 そう言ってレイニーに目を向ける。

「地下牢に向かってはくれまいか? 母上が囚われているやも知れぬ」
「地下牢ならリュークとアナーシャが向かってますが……」

 マキが訝しんで口を挟むと、王女は「ふむ」と顎に手を当てた。

「アナーシャが向かっておるのなら大丈夫だとは思うが……リュークも一緒か……」

 「不安じゃ…」と王女は眉間に皺を寄せた。どれだけ信用がないんだ、とマキは苦笑いを浮かべた。

「構わぬ! もしもという事もある。お主らは地下牢へ向かってくれ」
「ああ、わかった」

 カレンは素直に頷いて立ち上がった。そして未だ納得がいかない顔をしているレイニーの腕を取り、地下牢への道を聞いて歩き出す。

「ちょ、ちょっとカレン!」

 腕を引っ張られたレイニーは慌てて声をかけた。振り返る事無くカレンが返事をする。

「何だよ」
「タナとマキ、大丈夫かな」

 何度も後ろを振り返りながらレイニーが尋ねる。カレンは彼女に背を向けたまま答えた。

「俺たちがいたところで、邪魔になるだけだ」
「それは……そっか……」

 あれだけ自信に満ちていたカレンの声は低く、不機嫌だった。炎のたてがみを持つ魔物と戦いで、青年は何も出来なかった事を悔やんでいた。
 カレンの気持ちが痛い程伝わり、レイニーは黙って後をついて行った。




 アナーシャは呪文を唱え終えて額の汗を拭った。彼女一人の魔力だけでは全員を完全に癒す事は出来なかったが、王妃も二人の兵士も幾分顔色は良くなっていた。
 リュークは牢の鉄格子に張り付いて何やらゴソゴソとしている。王妃はそんな彼の背中を見つめて、ふと呟いた。

「この戦いが終わったら、まずこの地下牢を改築しましょう。もっと居心地が良くないと駄目だわ」
「は…?」

 アナーシャは目を丸くして王妃を見た。この女性は一体何を言っているのだろう。今はそんな事を言っている場合ではないのに。
 王妃は子供のような笑みを浮かべていた。その目がふ、と細められ、アナーシャを見つめた。

(あ…)

 王妃の笑みの中に慈愛に満ちたものを見つけ、アナーシャは心の中で自分を叱咤した。
 いくら焦ったところで状況は何も変わらないのだ。今は体を休めなければ。
 王妃の笑みはそう彼女に伝えていた。

 アナーシャはひとつ深呼吸をして、扉に張り付いているリュークに声をかけた。

「リューク、どう?」
「全然駄目だ」

 溜息混じりに零し、ひやりと冷たい鉄格子に頬を当てた。

 マハタック国のエンブレムは服に留めるピンが取り外し可能になっている。それを使ってリュークが先程から牢の鍵を開けようとしていたが、今まで一度もやったことのない人間が簡単にこなせるはずがなかった。
 リュークとアナーシャの剣は取り上げられていないので、鉄格子を斬るという提案も浮かんだが、二人にそんな芸当は出来ない。

「あらあら。鍵開けと鉄斬りは今後の騎士団の課題ね」

 ころころと笑いながら王妃が言う。二人の騎士と二人の兵士はがっくりと項垂れた。

 不意にリュークが顔を上げ、口唇に人差し指を当てて振り返った。牢の階段に人の気配がしたのだ。一瞬で一同の顔に緊張が走る。
 またあの魔族がやってきたのだろうか。リュークは鉄格子を握ってじっと階段を見つめた。

「「あ……」」

 綺麗にハモった声が地下牢に響く。
 階段から姿を現したのはマキ、タナと共に玉座に向かったはずの金髪の青年だった。彼の後ろには良く似た色彩の娘もいた。

「助かった…!」

 リュークが安堵の声を上げる。金髪の青年カレンは驚いた顔でリュークを見た。

「王女の言う通りだったな」

 本当にもしもの事が起きていた。恐るべしマハタック国第一王女。
 カレンは感心しながら牢に近付いた。

「王女って……ネア王女様は無事なのか!?」

 リュークが目を見開いて叫ぶ。カレンはその大声に一瞬気圧されたが、しっかりと頷いた。

「ああ、今タナとマキと一緒にいる」
「そうか……」

 その場にいた全員がほっと胸を撫で下ろした。だがリュークは勢い良く顔を上げた。

「こんな所で足止めを食らってるわけには…! 何処かに牢の鍵が無いか!?」

 尋ねられ、レイニーとカレンは牢屋中を探してみるが、それらしい物は見当たらなかった。
 リュークは鉄格子を握り締めて項垂れた。恐らく魔族かキリュウが鍵を持っているのだろう。
 牢の前に立って鍵穴を見ていたカレンは、不意にレイニーを振り返った。

「おいレイニー。お前ならこの鍵、開けられるだろ」
「えっ!?」

 いきなり声をかけられ、レイニーは驚いてカレンの顔を見返した。しかしカレンは反論は受け付けないと目を逸らし、腰に取り付けてある小さな鞄から必要な道具を取り出して彼女に手渡した。

「俺の左腕がちゃんと動けばいいんだけどな。ま、罠もないし、頼んだぞ」

 そう言ってカレンはレイニーの肩を叩いて場所を空けた。牢の中から五人が期待の眼差しを送っている。
 レイニーは少し躊躇ったが、道具を握り締めて扉の前に膝をついた。

 先端が尖っている道具を左手に持って鍵穴に差し込む。右手には先端が曲がっている道具を握り、隙間から差し込んだ。
 幼い頃から鍵開け、縄抜け、落とし穴の見分け方など、様々な訓練を盗賊団でこなしてきたのだ。そしてカレンが自分の腕を信頼してくれている。
 大丈夫、とレイニーは心の中で自分に言い聞かせて、手を動かし続けた。

 カチャカチャと小さな音が地下牢に響き渡って数分後。カチリ、と今までとは違う音が不意に一同の耳に届いた。
 レイニーは顔を上げて道具を鍵穴から外し、そっと扉に手をかけた。
 ギィ…と錆びた音を立てて鉄格子の扉がゆっくりと開いていく。

「や…ったぁ!」

 リュークが万歳をして牢から飛び出し、レイニーの肩を叩いた。

「サンキュー!」

 にこにこと笑みを浮かべてリュークは言い、牢から出ようとしている王妃に手を伸ばした。牢から出た王妃も笑みを浮かべて礼を言った。

「ありがとう、お嬢さん。お蔭で助かりました」

 柔らかく微笑まれ、レイニーは照れたように笑みを浮かべて道具をカレンに返した。カレンも嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「ありがと、カレン」
「ああ」

 道具を受け取り、カレンは頷いた。

「よし、マックスたちの援護に行こう」

 力強くリュークが言う。一同は頷いて地下牢を脱出して玉座へ向かった。





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