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20:止まない雨


 翌日、一行はカナムーン国行きの船に乗った。しかし次の日から急激に天候が悪くなり、雨が酷く降り始めた。
 だが嵐にはなることはなく、船は無事に三日後に北大陸に到着した。
 北大陸の玄関口、港町ペイルで宿を取り、雨が止むのを待とうと考えたタナたちだったが、何日も降り続いている雨は止む気配を全く見せないので、早々にカナムーン国へ戻ってしまうことにした。

 まだ昼を少し過ぎた時間だというのに、辺りは豪雨で薄暗い。
 街灯に照らされた大通りを小走りに駆け抜け、メサム国首都行きの乗り合い馬車に乗り込んだ。

「すごい雨だね」

 馬車の窓に張り付き、外を眺めているダリが口を開いた。
 少年のその声すらかき消してしまいそうな程の雨音。そして時折重い灰色の空に、ピカッと白い閃光が走る。

「この時季にこんな雨は降らないんだけどな」

 不思議そうな表情でカレンも窓の外に目を向けた。
 北大陸の降水量は少なくはないが、ここまで酷い雨が降るのは夏が来る直前くらいだ。今の季節はそろそろ新芽が顔を出しそうな冬だった。

 不安と疑問が入り混じった気持ちを抱えた一行を乗せた馬車は、夜遅くに何とかメサム国の首都に到着した。


 乗り合い馬車の停留所近くの宿を取り、翌朝、カナムーン国へ向かう事になった。
 するとカレンが、部屋に向かおうとしたレイニーを呼び止めた。

「ちょっと盗賊団に行ってくるぜ」
「え、今から!?」

 レイニーは驚きの声を上げた。
 時間も大分遅い上に、雨も未だ強く降り続けている。そんな中を出歩くのは危険なのでは、とレイニーはカレンを見た。だが彼は飄々と答えた。

「俺の分の宿代が浮いていいだろ。どうせすぐそこだしな」

 防水加工の施された革のマントのフードを深くかぶり、宿の入口へ足を向ける。

「あとでちゃんとカナムーン国に向かうから」

 それだけ言ってカレンは雨の中へ駆け出していった。

 呆然と青年を見送ったレイニーは、小さく溜息を吐いた。久しぶりに北大陸に戻ってきたのだから、やはり盗賊団に戻りたくなったのだろう。
 子供でもないので大丈夫か、とレイニーは納得して、宛がわれた部屋に向かった。



 翌朝早く、レイニーとアイミは共に朝食を摂る為、宿の一階の食堂へとやってきた。
 雨はまだ降り続けており、客足は少ないかと思われたが、食堂はかなりの人で賑わっていた。
 空いている席につこうとした時、不意にすぐ側から声がかかった。

「――アイミ?」

 隣の席に座っていた若い男が驚いた表情でアイミを見ていた。
 短く切り揃えた淡い水色の髪に濃い青の双眸。灰色の革鎧を身にまとっている剣士だった。
 アイミは目を見開いて彼の顔を見た。

「リオーク!? 久しぶり!」

 声を上げてアイミが男に抱きつく。彼は一瞬戸惑ったが、彼女の腰に手を回して顔を見上げた。

「君も四大陸に渡っていたんだな」
「ええ、色々と旅をして回ってたんだけど……」

 そこでふ、とアイミは一緒に食堂にやってきたレイニーを思い出した。彼女は青い目を丸くして、二人をきょとんと見ていた。

「紹介するわね。彼はリオーク。私と同じミズカ国の騎士で女神七大秘宝を探しているの」

 アイミは男から体を離して言った。

「で、こっちがレイニーで、一緒に旅をしてる子」

 紹介された二人はペコリと頭を下げた。
 ふ、とリオークはレイニーの正面に腰を下ろしたアイミを見た。

「そうだ、丁度いいや。数日前、有力な情報が手に入ってね。これから隣町まで行くんだけど、力を貸してくれないか?」
「え?」

 アイミは驚いてリオークからレイニーに目を向けた。
 女神七大秘宝を探しているアイミだったが、今は魔族と戦う旅に付き合っている。どちらを取るべきか一瞬悩んでしまった。
 それに気付いたレイニーが笑みを浮かべた。

「行ってきたら? アイミは女神の秘宝を探すのが本来の目的でしょ?」

 言われてアイミは思い出す。
 元々タナについて行っていたのは、女神七大秘宝に関しての情報が得られるかも知れないという考えからだった。
 しかし、タナの旅が魔族と戦う物に変わっている今、ここで自分勝手に離脱してもいいものなのか。
 彼の目的は全人類の課題なのだ。
 アイミが悩んでいると、レイニーがリオークに尋ねていた。

「アイミがいた方がいいんでしょ?」
「そうだな。中々信頼出来る冒険者がいなくて困ってた所だったし……」
「だってさ、アイミ。皆にはあたしから言っておくから」

 だからまずは自分がやらなければいけない事をやってこい、とレイニーは深い青の双眸でアイミを見た。アイミは真っ直ぐ彼女を見つめ返して頷いた。

「……分かったわ。でも必ず追いかけるからね」
「うん」

 レイニーはにっこりと微笑んだ。
 そしてアイミは食事もそこそこに、リオークと共に雨で煙る街へと消えていった。




 タナ、レイニー、ダリ、ユーリと四人になった一行は、乗り合い馬車に乗ってカナムーン国の首都に到着した。
 ダリとユーリはタナがカナムーン城に戻る間、宿を取って待つことにした。レイニーは盗賊団には戻らず、タナと共に城へ向かった。

 雨で視界の悪い中庭を横目で眺めながら、タナとレイニーは客室へ向かっていた。その時、前方の角から銀色の影が現れ、二人に気付いたその人物は慌てて駆け寄ってきた。

「タナ! 遅いぞ!」
「エルス王子…?」

 形の良い銀の眉を吊り上げて叫ぶメサム国の第一王子に、タナは不思議そうな表情を浮かべた。

「どうかなさったんですか?」

 かなり苛立っている様子のエルスにタナが尋ねると、彼は腰に手を当てて青い目を細めた。

「何も聞いていないのか? 今、この北大陸で尋常では無い事が起きている!」

 タナとレイニーは思わず顔を見合わせて、エルスに向き直った。銀髪王子は苛々としながらも、分かりやすく説明を始めた。

「五日前くらいから、北大陸で雨が降り続いているだろ?」

 尋ねられ、二人は素直に頷いた。
 全く止む気配の無い、季節外れの豪雨。それがどうしたのか、と目線で尋ね返した。

「この雨の所為で人々の様子が変なんだ」
「どういう事ですか?」

 微かに眉を寄せてタナが尋ねる。
 エルスは青い目を更に細めて、忌々しげに雨を睨み付けた。

「この雨には負の力が込められていて、感情が制御できなくなっているんだ」


 最初に異変が起きたのはエルスの妹、メサム国第一王女リアにだった。
 メサム国にいる間は、必ず一日に一度は顔を見に行っているエルスに対して、ある日彼女はこう呟いたのだった。

 ――自分も王子として生まれてきたかった、と。

 その言葉にエルスの全身に衝撃が走った。
 次期メサム国の女王陛下として、リアは弱音も吐かずに日々努力していた。エルスもソリューネも、彼女が重圧に押し潰されないように気を配っていたつもりだった。
 しかしリアはずっと二人の兄を羨んでいたのだ。

 表向きは政略結婚にも見えるが、本当に好きな人と結ばれようとしている一番上の兄、エルス。
 エルスとカナムーン国第二王女マリアードの婚約が、何かしらの形でなくなったとしても、二国間に亀裂が走る事はない。
 元々カナムーン国の王妃と、メサム国の女王陛下は姉妹だからだ。

 そして女王陛下以上の魔力を持ち、エルス以上に自由気ままに過ごしている、二番目の兄ソリューネ。

 エルスは言葉を失い、苦しそうに自分を見つめてくる妹を、ただ見つめ返す事しか出来ずにいた。

 その時、部屋の扉が勢い良く開け放たれ、ソリューネが駆け込んできた。

「兄上! リア! 陛下が……母上がお倒れに…!」

 エルスはリアを部屋に残し、ソリューネと共に女王陛下の自室へ向かった。
 女王は命に別状はなかったが、顔色がかなり悪かった。原因を聞くと、妹リアの様子がおかしかった理由も同時に判明した。
 魔力が高い人間を狙い、何者かが精神的な攻撃を行っているという事。そしてその媒体がこの季節外れの雨だろうということだった。

 エルスは馬を飛ばしてカナムーン国へ向かった。
 カナムーン国でも同様の事件が起きており、第二王女マリアードは自室に篭ってエルスと顔をあわせる事はしなかったらしい。
 彼の苛立ちは、妹王女に言われた言葉よりも、マリアード王女に会えない所から来ているようだ。


「あれ…? でもどうしてエルス王子とソリューネ王子は何ともないの?」

 状況を聞いたレイニーが何気なく尋ねた。
 エルスの話を聞く限り、感情のコントロールが出来ないのは魔力の高い人間となっている。二人は魔法大国メサム国の王子だから、魔力は高いはずだ。
 その疑問にタナが口を開いた。

「エルス王子は魔力を殆どお持ちじゃないんですよ。ソリューネ王子は恐らく…第二王子だからでしょうね」
「そうだな」

 エルスは頷いてレイニーにも分かりやすく、簡単に説明した。

「貴族どもの非難や誹謗中傷は全て俺の方にくるからな」

 女王の国で最初に王子として産まれたエルスと違い、ソリューネに対しての声はエルスの時よりも小さい。
 そして彼は第二王位継承者であっても、リアの様にかなりの重圧を受ける事もない。
 多少の攻撃を受けていたとしても、まだソリューネ自身が己の感情を制御しきれているのだろう。
 レイニーはそう納得して頷いた。

「それで、犯人は分かりました?」

 タナが尋ねると、エルスは眉間に皺を寄せて唸った。

「いや…魔道士の殆どが使えないから、術が発動されている場所の特定が出来なくてな…」

 それでタナを待っていたのだった。恐らくカナムーン国王宮魔道士長アリーネも、この雨の所為で動けないのだろう。
 北大陸に戻ってきたばかりのタナも、動けなくなるのは時間の問題だった。

「すぐにでも取り掛かりましょう」

 タナがそう言って、地下にある魔道士研究所へ足を向けようとしたその時、廊下の奥が俄かに騒がしくなった。

「――待たんか、盗賊!」
「うるせー! 今それどころじゃねぇだろ!」

 豪雨の音にも掻き消されないほどの怒鳴り声と、複数の足音が次第に近付いてくる。

「あ…」

 三人に向かって走ってくる人物を見て、タナとレイニーは小さく声を上げた。

「エルス王子殿下、タナ様! お気をつけ下さい!」

 三人に気付いた兵士がそう叫ぶ。しかしタナは身構える事なく、先頭を走っていた金髪の青年に声をかけた。

「カレンさん」

 名を呼ばれた青年は、三人の側で足を止めて肩で息をし始めた。
 少し離れた所で三人の兵士がそれぞれ武器を手にしてカレンを睨みつける。

「盗賊! エルス王子殿下とタナ様から離れろ!」
「しつこいな……」

 カレンは前髪をかき上げて半眼で兵士を振り返った。タナは小さく苦笑して一歩前に歩み出た。

「武器をしまってください。この方は大事なお客様ですよ」
「しかし…! 身分証明もせず、急に逃げ出した輩ですよ!?」

 兵の反論の声に、レイニーは思わず半眼でカレンを睨み付けた。その冷ややかな青い目に、カレンは肩を竦めた。

「急いでた所為で、証明出来るもんを持ってくるのを忘れただけだ」

 三人の兵がじりじりと近付いてくる。普段ならタナが一声かければ納得するのだが、今は北大陸中で事件が起きている為、普段以上に疑り深くなっている。
 タナは小さく溜息を吐いて黒い目を兵士に向けた。
 温かさを全く感じさせないその双眸に、兵士は思わずたじろぐ。

「このお方はカナムーン国第一王子、カミル殿下です。下がって構いませんよ」
「ひっ…!」
「し、失礼しました…!」

 言葉の内容より、彼の冷たい漆黒の目に睨まれて、兵たちは顔を青褪めさせて逃げるように立ち去っていった。
 青い目を見開いてその様子を見ていたエルスは、不意に小さく吹き出した。

「タナも本気で怒る事があるんだな…」

 貴重なものが見れた、とエルスは肩を震わせて笑い出した。


「で? カレンは何を急いでるの?」

 気まずそうな顔をしているタナを横目に、レイニーが尋ねる。カレンはそうだった、と思い出して話し始めた。

「盗賊団に変な男がいるんだ。両腕に刺青があって、ずっと眠り続けてるらしくて」

 それだけでは別に変わっているとは思えない。三人がそう思っていると、カレンは不意に顔を顰めた。

「昨日から急に、その刺青が光りながらうねり出して…。それにそいつがいる建物だけ、雨の勢いが尋常じゃないんだ」

 この豪雨と関係があるのかは良く分からないが、盗賊団の頭ライローグから「とにかくタナを連れてこい」とカレンは命令されて城にやってきたのだった。

「案内してください」

 タナが言うとカレンは頷いて来た道を戻り始めた。レイニーも当然とばかりに二人についていく。エルスは一瞬迷ったが、三人の後を追いかけた。





 盗賊団薔薇組の大きな屋敷の周りは、カレンが言っていたように雨の降り方が尋常ではなかった。
 まるで滝のように豪雨が降り注いでいる。叫ばないと声が聞こえない位の轟音だった。
 四人を出迎えたライローグは、エルスの姿を見て目を丸くした。

「おや、エルス王子。ご機嫌麗しく」
「ああ」

 エルスはちらりとライローグを見た。何度か城で姿を見た事があるが、中々の食わせ者だと認識している。案の定、

「マリアード王女についていらっしゃらなくて宜しいので?」

 などと、ニヤニヤ笑いながら尋ねてきた。

「追い出されたんだ! 悪かったな!」

 叫んでエルスは酷く落ち込んだ。そしてぶつぶつと呟き始める。

「おいライローグ。あんまりからかうなよ」

 カレンが半眼で睨みつけると、ライローグは笑いながら謝り、一行を刺青男が眠る部屋に案内した。

 玄関ホール正面の階段を上がり、すぐの扉をライローグは開けた。途端、一同を何とも言えない空気が襲った。
 暗く重いその力に、一同は思わず眉を寄せた。
 部屋の中は異様な光景が広がっていた。

 広すぎない部屋の窓際に置かれた質素な寝台に横たわる、白髪の若い男。
 肘上までまくられた袖から覗く両腕には、黒い魔法文字の刺青があった。灰色の空に白い閃光が走るのと同時に、ドクンと脈打つかのように赤い光を放つ。
 そして天井付近には黒と紫の光が渦巻いていた。

「お前たちが来る前に状況が悪化してな」

 渦巻いている光を見上げてライローグが言った。

「ったく、とんでもない奴を拾っちまったよ」

 その言葉にレイニーとカレンは揃ってライローグを見上げた。
 この盗賊団のリーダーは昔から色々と拾ってくる癖がある。主に物ではなく人間を拾ってくるのだから性質が悪い。
 レイニーとカレンも幼い頃、ライローグに拾われたのだった。

 寝台の側に立って男を見下ろしていたタナは、顔を上げてライローグを見た。

「上着を脱がせてもらっていいですか? それと刃の短いナイフもあれば貸して下さい」
「ああ、分かった」

 頷いてライローグはカレンと協力して男の上着を脱がせた。レイニーは部屋を出て、一階の倉庫からナイフを取ってくる。
 袖の無いシャツ一枚になった男の両腕は、二の腕まで細かく刺青が入っていた。
 ナイフを受け取ったタナは、レイニーに持っていたアイオンの杖を渡して声をかけた。

「レイニーさんとカレンさんは部屋の外で待っていて下さい」
「?」

 レイニーは首を傾げてタナを見上げた。青年は彼女の青い目を見つめ、はっきりと告げた。

「見ない方がいいです」
「……わかった」

 長い杖をぎゅ、と抱きかかえ、頷いてレイニーはカレンと共に部屋を出ていった。
 二人を見届け、ナイフの鞘を外しながらタナは寝台の側へ向かう。

「エルス王子、回復魔法は使えましたよね?」
「ああ、簡単なものならな。……何をする気だ?」

 黒髪の青年を目で追いながらエルスは首を傾げた。ライローグは部屋の扉の側の壁に腕を組んでもたれ、二人の青年を黙って見ていた。

「この刺青が雨を降らせている原因なので、今から解呪します」

 そう言ってタナは黒い目で男を見下ろした。

「僕がこのナイフで刺青を切っていくので、エルス王子は後から回復魔法をかけてください」
「……ああ」

 しっかりと頷いて、エルスも寝台の側に立った。

 本来ならこういう解呪は攻撃魔法を得意とするタナより、解呪や浄化魔法を得意とする僧侶の役目だ。しかし殆どの魔道士はこの雨のせいで動く事が出来ない。動ける魔道士を探す時間も無い。

 タナは目を閉じ、一度深呼吸をしてナイフを両手で握った。

「では行きます」

 ちらりとエルスを見て、タナは意識を集中させ始めた。
 青年の全身が白い光に包まれる。

「聖なる力を持って、悪しき力の鎖を断ち切る」

 タナの全身を包んでいた白い光がナイフに移動した。それを確認したタナは、躊躇う事なくナイフを寝台で眠る男の腕に突き立てた。
 骨を傷付けないように慎重にナイフを動かしてゆく。赤い血がだらりと流れ出し、シーツを染めていった。
 一瞬顔をしかめたエルスは、言われたように回復魔法を唱え始めた。


 天井付近の光の渦巻く速度が速くなる。
 タナの力に抵抗するかのように、刺青が蠢き、赤い光が放たれた。
 同時に窓の外が一瞬白く染まり、僅かに遅れて轟音が響き渡った。近くに雷が落ちたのだろう。
 タナはそれらを気に掛けることなく、ナイフを握る両手に全神経を集中させていた。少しでも気を抜けば、魔力が暴れてしまいそうだった。

 元々解呪の魔法は専門外な上、先日迷いの森で魔力の封印を解いて暴走しかけたのだ。
 タナの額にじわりと脂汗が浮かぶ。その表情はかなり苦しそうにしかめられていた。

 回復魔法を唱え続けていたエルスは、タナを見て眉を寄せた。
 青年への術の負担がかなり大きい。
 一度中断させるか、と考えた直後、タナの持つナイフから白い閃光が放たれた。

 寝台に眠る男から光と風が吹き出し、天井付近の黒い光をかき消した。
 雨音が弱くなり、窓の外の灰色の雲がゆっくりと消え始め、橙色に染まる青空が見えた。
 解呪に成功したのだと、ほっとエルスは息を吐いた。直後、彼は吐いた息を思わず吸い込んだ。

「な…どうして…!?」

 エルスの悲鳴混じりの声にライローグも寝台の側にやってきた。
 寝台に眠っていた男の体が急激に干乾び始めたのだ。乾ききった皮膚はジュ、と蒸発し、残った白骨はポロリと崩れて塵になっていった。
 悪臭に顔をしかめ、口元を手で覆う。その直後、タナの体がふらりと傾いた。
 隣に立っていたエルスが咄嗟にその体を支えようと手を伸ばす。しかしタナから真白い光と暴風が放たれ、側にいたエルスとライローグの体を吹き飛ばし、部屋の壁に叩きつけた。

「――ぐぅっ!」
「タ…タナ…!」

 強大な力に抑え付けられたエルスは顔をしかめて黒髪の青年を見た。
 タナは頭を手でおさえて床に蹲っていた。

「お、おいっ…タナ…!」

 エルスが叫んだ瞬間、部屋の扉が開け放たれた。

「無事に解決したみたいだ…なっ!?」

 廊下で待っていたカレンとレイニーが部屋にやってきたのだ。だが二人が部屋の中の状況を理解するよりも早く、白い光と風が襲いかかった。

「うおっ!?」
「きゃっ!」

 二人の体が軽々と吹き飛び、部屋から追い出される。二人はそのまま部屋の前にある階段へ投げ出された。カレンは反射的に体を捻り、レイニーに手を伸ばした。
 大きな音と埃を巻き上げて、レイニーとカレンは階下の玄関ホールに落ちた。その騒ぎに屋敷にいた人々が慌てて駆けつける。

「カレン!」

 レイニーは素早く体を起して青年の上から降りた。
 落ちる瞬間、カレンは咄嗟に後ろにいたレイニーを抱き寄せて位置を変え、彼女の下敷きになったのだった。

「くそっ…! 腰打った…!」

 痛みに顔を顰め、カレンが腰を擦りながら体を起こす。そしてレイニーが大事に持っている杖に目を向けた。

「おい、その杖をタナに持って行け! 暴走しかけてやがる!」
「ええ!?」

 レイニーは思わず階段の上を見上げた。黒髪の青年の顔を思い出し、レイニーは慌てて階段を駆け上がった。
 タナのいる部屋からは未だ光と暴風が溢れている。木造の屋敷がぎしぎしと悲鳴をあげて揺れていた。
 レイニーは吹き飛ばされないように手すりをしっかり握って階段を昇った。杖を支えにすべく床につくと、先端の宝石が仄かに光り、ほんの少しだけレイニーに襲いかかる力が弱まった。

 眩しさに目を細め、部屋の中を見回す。
 エルスとライローグがまだ壁に抑え付けられており、寝台のすぐ側にタナの姿を見つけた。

「――タナ!」

 ゴウゴウと唸り声を上げる暴風に負けないくらいの声でレイニーが名を叫ぶと、青年の体が微かに動いた。ゆっくりと振り返り、黒い双眸がレイニーの姿を捉える。

「……レイニーさん……くっ!」

 制御出来ずに呑み込まれそうになる力に顔を顰めて歯を食いしばる。酷い耳鳴りと頭痛に視界が歪み始めた。
 気を失ってしまえば楽になれる、という誘惑に負けないように強く唇を噛み締めた。

 その時、不意にタナの手が握られ、指先が堅い物に触れた。ほんの僅かな感触に、それがアイオンの杖だというのを瞬時に理解する。
 ぐっと力を込めて杖を握り込んだ瞬間、耳鳴りと頭痛が弱くなる。だがすぐに再び耳鳴りと頭痛がタナを襲った。

「…ぐぁっ…!」

 頭が割れそうな程の痛みに、意識が飛びかける。
 魔力に呑まれる、と思った瞬間、ふわりと頭を優しく抱きかかえられた。
 甘い香りと温かな熱に、意識がはっきりとし始める。

「タナ、しっかりして…!」

 耳鳴りに混じってレイニーの声がすぐ側から聞こえ、タナは自分の身に何が起きたのかが分かった。
 荒れ狂う魔力の風に吹き飛ばされるのを堪えながら、レイニーがタナを抱きしめていたのだ。
 タナはレイニーの背中に手を回して彼女を支え、目を閉じた。杖を握る手に、自然と力がこもる。

 何より守らなければならないレイニーがすぐ側にいる。
 ここで魔力を暴走させて、彼女を傷付ける訳にはいかなかった。

 歯を食いしばり、意識を杖に集中させる。
 迷いの森で会った魔族の青年の言葉が蘇る。この力は全て自分の物だ。恐れる必要はない。

(――従え…!)

 タナの心の声に応えるかのように、閉じた視界に緑色の光が溢れた。
 カッ! と杖から緑の閃光が放たれた。壁に押さえつけられていた力が不意に消え、ライローグとエルスは床に尻もちをついた。

「痛…!」

 あまりの痛さに顔を顰めたエルスは、視界に入った黒髪の青年を見て、青い目を見開いた。

「羽根…?」

 青年の周りに黒い羽根がいくつも舞っていた。しかしそれらは実態を持たず、瞬きの間に消えていった。

 光と風が収まったのを感じて、レイニーは顔を上げて部屋を見回した。
 あれだけの暴風だったにも関わらず、家具に被害は及んでいない。エルスとライローグが無事なのを確かめて、レイニーはタナを見た。
 黒髪の青年は荒い呼吸を繰り返していたが、レイニーの視線に気づいて顔を上げた。
 漆黒の双眸がレイニーの深い青の瞳とぶつかると、申し訳なさそうに伏せられた。

「……レイニーさん…すみません……」
「ううん。タナが無事で良かった」

 そう言ってレイニーは青年を抱きしめている腕に力を込めた。タナはレイニーを引き剥がすこともせず、目を閉じたまま考え込んでいた。

 何とか魔力を制御したが、まだ完全とは言い切れない。
 シャロル国へ行く前に数日時間を貰い、師のアリーネに頼んで魔力を制御する訓練を一からやり直した方がいいだろう。

 タナがそう考えていると、部屋を覗き込んでいた人々を追い払っていたライローグがふ、と尋ねた。

「結局あの刺青野郎はどうなったんだ?」

 眠り続けたまま干乾び、白骨となっていった姿を思い出し、ライローグが僅かに顔を顰める。

「恐らく、術を発動させる為に生命力を使っていたんだろう。違うか? タナ」

 エルスも固い表情を浮かべて尋ねた。タナはレイニーに支えられながら立ち上がり、頷いた。

「間違いないでしょうね」

 二人の青年の顔を見ていたライローグは、顔を青褪めさせて頭を振った。

「ったく。魔族の仕業か知らねえが、とんでもない術だな」

 肩を竦めて打った腰をさすりながら、ライローグが部屋を出ていく。レイニーと共に後を追おうとしていたタナは、エルスに声をかけられて振り返った。

「タナ。今日はここで休ませてもらえ。顔色が悪いぞ」
「そうですね……」

 自覚した途端、急激な疲労がタナを襲った。

「城には俺から連絡を入れておくから、ゆっくり休めよ」

 タナの肩を軽く叩いてエルスが部屋から出ていく。その後ろ姿に小さく礼を言い、タナは頭を下げた。





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