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 シャロル国王宮騎士団長のフレイは、足早に城の廊下を歩いていた。

 何だか本日はツイていない気がする。
 夢見は悪くなく、寝起きは好調。しかし何故か今日に限って寝癖がしつこすぎた。
 慌てて朝食を摂り、会議室へ向かう途中、廊下で立ち話をしている侍女数人を見つけ、うっかり話し込んでしまった。
 新顔がその中にいたのだから仕方がない。最低でも一日四回以上は女性に声をかけなければ男が廃る、とフレイは考えているのだ。因みに四回の理由は、朝、昼、夕、夜の四回だったりする。

 完全に遅刻しそうなフレイは、女官長に怒鳴られないように出来るだけ急いで会議室へ向かったが、会議室の扉が見えた瞬間、重要な書類を忘れた事を思い出した。
 体中の酸素を全て吐き出してしまうくらいに深く溜息をつき、油断すればひょこっと立ち上がる寝癖を押さえ、自室へ逆戻りを始める。

 いっそ開き直って思い切り遅刻してやろうかとも考えたが、会議の後の予定を頭に浮かべ、その考えを追い払う。遅刻して一番困るのは自分自身なのだ。

 ようやく戻ってきた自室の扉のノブに手をかけ、フレイは再度溜息をついた。この時点でかなりの幸が逃げた事だろう。
 とにかく急いで会議室へ向かおう、と扉を押し開けて部屋に足を踏み入れた。だが、

「――はぁ…!?」

 フレイは思わず素っ頓狂な声を上げた。

 彼の自室がいつの間にか滅茶苦茶に荒れていたのだ。十数分前、彼が出るまではいつもと同じ部屋だったはずだ。
 執務机、ソファー、テーブル、本棚、窓にかかっているカーテンまでもが黒く焦げて異臭と煙を上げていた。
 燃えた、というより部屋に雷が落ちたかのような状況だった。

 雷と聞いて思いつく事柄はひとつしかない。案の定、床に無様に倒れている本棚の影から小さな金の頭が見えた。

「……フレーィ…。ごめんなさぁい……」

 やはり本日は厄日らしい。

 紫の瞳に涙を浮かべた、手のひらサイズの雷の大精霊の姿を最後に、フレイの意識は暗転した。




21:魔力の檻に囚われ


 翌日からタナはアリーネの元で魔力制御の訓練をすることにした。折角だからとダリもそれに付き添っている。
 レイニーとカレンはその間、盗賊団で仕事の手伝いをやらされていた。ユーリは宿に残り、カナムーン国やメサム国に関しての知識を求め、王立図書館に行ったりして時間を潰していた。
 アイミからはまだ連絡がない。必ず追いかけると言っていたので、タナの訓練が一通り終わり次第、シャロル国へ向かう事となった。

 タナの訓練は三日間行われた。魔力の制御はもちろんの事、もしもまた暴走しかけるようなことがあれば、ダリもサポートに回る訓練も行われた。
 丸一日しっかりと体を休め、そしてレイニー、カレン、ユーリと合流し、タナたちはシャロル国へ向かった。



 前回シャロル国に来た時は寄らなかった首都に到着したタナたちは、王宮騎士団長のフレイと連絡を取るため、早速魔道士協会へ向かった。
 多忙な騎士団長とすぐには連絡は取れないだろうと覚悟していたが、フレイ本人からすぐに迎えを寄越すと言われ、協会で待つ事になった。

 カナムーン国よりも北に位置するシャロル国は、まだ雪が残っていた。広場にはいくつもの焚き火があり、学生や商人、冒険者などがその周りで談笑していた。
 城下町にある学校の鐘が二回鳴った頃、シャロル国の紋章入りの馬車が魔道士協会に到着した。
 一行はその馬車に乗り、シャロル城へ向かった。


 二人の騎士に案内されたのは、離れの建物の一室だった。会議室として使われているのか、長机といくつかの椅子が部屋の中央に置かれてある。
 そこに腰かけ、侍女たちが五人にお茶を淹れて回った頃、王宮騎士団長の金髪の青年フレイが姿を現した。

「待たせてすまない。抜け出してくるのに手間取ってね」

 そう一同に声をかけ、手に持っていた一冊の本を机の上に置いた。

「いえ……それよりこれは?」

 目の前に置かれた本を見て、タナが尋ねる。
 濃い赤色の表紙のかなりの厚さの本。飾りもタイトルプレートも何もついていない。
 手を伸ばして本の中身を見ようとしたタナを、フレイが止めた。

「おっと、気をつけてくれよ。この魔道書は魔力を奪い取るからな」

 彼の言葉に五人は表情を固くしてフレイを見つめた。フレイは小さく苦笑して部屋を見回し、青い目を細めた。

「サンダー、出て来い」

 有無を言わせぬ強い口調に、机の上でパチパチと小さな雷光が起こる。そこから手のひらサイズの小人が姿を現した。
 後ろ毛を逆立てた金の髪に紫の瞳。首に巻かれた黄色の長いスカーフ。雷の大精霊サンダーだった。
 サンダーはふわりと宙を飛び、赤い本のすぐ側に降り立った。

「実は昨日、こいつがこの本を見つけてね」

 フレイはそう言ってサンダーの小さな頭を指で突いた。サンダーは小さく悲鳴を上げてフレイを睨みつけたが、鋭い青の双眸とかち合い、慌てて顔をそらして本について説明を始めた。

「昨日、フレイの部屋にこの本があってさ。見た事のない本だったからつい開けちゃって……」

 サンダーは恨めしげに本を睨みつけた。

「そしたらこの本、読んだ者の魔力を奪う魔道書でさぁ。ごっそり魔力を奪われたってワケ」

 その時にサンダーの力が暴れ、フレイの部屋を滅茶苦茶にしたのだった。

「魔力を奪う魔道書、ですか……」

 タナが小さく呟いて本を見下ろした。青年の表情はかなり険しい。二度も魔力を暴走させかけ、取り敢えずの制御の仕方は訓練してきたとは言え、未だその力は危うい。
 そんなタナを見ていたレイニーは、顔を上げて尋ねた。

「どうやったら元に戻るのかは分かってるの?」
「恐らく、この本の中に書かれてあるだろう。ざっと見た感じ、様々な呪法が書かれてあったしな」

 答えてフレイは魔道書を手に取った。

「因みに魔力が無い者が読もうとしても、何も書かれていないように見えるし、横から覗き込んでも同じだ」

 そう言ってフレイは本の中身を見せた。彼の言うように、パラパラとページを捲っても、何も書かれていない白紙のページだらけだった。
 どうやら魔力のある者が、本をきちんと手にして読む必要があるらしい。

「僕が先に見てみるよ」

 ダリが立ち上がって言った。タナの魔力の事もあるが、本が正体を現した後、タナの魔力が尽きて戦えないという事態も考えて、少年は名乗り出た。
 フレイから本を受け取る少年を見て、レイニーがふと口を開いた。

「魔力が尽きた所でしおりをはさむってどうなのかな」
「ん、やってみる」

 頷いてダリは鞄からメモ帳を取り出し、一枚破ってしおり代わりにする事にした。

「じゃあ、いくよ」

 椅子に座り直し、一同の顔を見回して、少年は本に手をかけた。
 五人と小さな大精霊は少年の顔をじっと見つめた。
 赤いハードカバーの表紙を捲った途端、ダリの全身が淡い黄色の光に包まれる。魔力の波に長めの髪がなびいた。

 静かな部屋にページを捲る音だけが響き渡る。一同はまるで祈るかのように少年を見ていた。
 緊迫した空気に支配されて十数分後。少年を包んでいた黄色の光がかき消えた。

「もう無理…。ごめん、見当たらなかった……」

 深い溜息とともに呟き、ダリが机に頭を乗せた。しおり代わりのメモ紙を本にはさみ、本を押しやる。
 彼が読めたのは三分の一くらいまでだった。

「続きは僕がやりますね」

 タナが本を手に取って言った。レイニーが不安そうな表情で黒髪の青年を見るが、青年は安心させるかのように小さく一瞬だけ微笑んだ。
 はさまれたしおりの部分から本を開く。
 きちんと続きから読めているらしく、タナの全身が白い光に包まれた。
 ダリの時と同じように、タナの短い黒髪が揺れる。しかしその力は暴れる事もなく、大人しいままだった。

 全員に見守られながら本を読み進めて十数分後。タナを包んでいた光が消えた。それと同時にタナは本を閉じた。
 目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をして本を見下ろす。

「一応最後まで目は通せましたけど……」
「元に戻す方法はあった?」

 サンダーがタナの側まで行き、尋ねる。青年は頷き、何故か言い難そうに口を開いた。

「ありました。……穢れ無き清き乙女の力が必要だとか……」

 唖然と青年と本を見つめる一同に、タナは苦笑しながら説明した。

「多分、僧侶か神官を指しているとは思いますけど」
「清き乙女か……」

 腕を組み、本を見下ろしていたフレイが小さく呟く。

「取り敢えず魔道士協会に連絡を入れてみよう。部屋を用意してあるから、今日はそこで休んでくれ」

 そう言ってフレイは初めよりも黒みが増している赤い本を受け取り、部屋の外で待機していた侍女を呼ぶ。二人の侍女に五人を部屋まで案内するように命じて彼は部屋を出て行った。




 翌日。昼過ぎにタナたち五人は兵士に連れられ、離れの建物にある広間のような部屋にやってきた。
 家具や調度品などは一切置かれていない、殺風景な広い空間。その中央に白く丈の長い上着を着たフレイと、手のひらサイズの雷の大精霊、そして金と緑のラインが入った白い法衣を着た金髪の少女が立っていた。

「条件に合う子が丁度いたよ」

 フレイが声をかけると、少女はペコリと頭を下げた。

「は、初めまして。イリア=ルウェンと申します。まだ修行の身ですが、宜しくお願いします…!」

 緊張気味に少女が自己紹介をすると、タナも頭を下げた。

「お忙しい中、わざわざ有難う御座います」
「いえ、そんな…。タナ様の力になれるなんて光栄です…!」

 ぽっと頬を染めてイリアは顔の前で慌てて手を振った。それを見て、フレイはにやにやと笑みを浮かべた。

「じゃあよろしく頼むよ」
「は、はい」

 フレイから赤い本を受け取り、イリアはしっかりと頷いた。
 本を部屋の中央の床に置き、数歩後ろに下がる。両手を胸の前で握り、目を閉じた。
 彼女の足元から緑色の光の粒子がふわりとわき上がり、弾けた。直後、魔道書を中心に、大きな緑色の魔法陣が床に描かれる。

「異質なる物よ。その力を解き放ち、本来の姿を現せ」

 少女の澄んだ声に、魔法陣から光と煙が溢れ出す。魔力の風が部屋中で暴れ回り、一同の体をすり抜けていく。
 中央の床に置かれてある魔道書が開き、バラバラとページが捲られていく。そこから大きな紫色の光の玉が浮かび上がった。その光は真っ直ぐにフレイの側にいた手のひらサイズの大精霊の元へ向かった。

「うわっ!?」

 サンダーが驚きの声を上げる。
 紫の光に包まれた彼は、見る見るうちにその姿が大きくなり、人間サイズに戻っていた。

「…もど…った……」

 自分の体を見下ろし、サンダーが目を見開いて呟いた。その直後、先ほどと似たような紫の、かなり小さな光が浮かび上がり、今度はフレイへと向かった。
 続けざまに魔道書から黄色の光の玉が浮かび上がる。光はふわりと宙を舞い、ダリの体の中へ吸い込まれていった。

 魔法陣から溢れる緑色の光が白みがかり、強くなっていく。

 残るはタナの魔力。
 術を制御するイリアの表情が険しくなった。

 ページが風に煽られ、捲られていく音がやけに大きく聞こえ始める。
 バシッ、と部屋の中央で閃光が走った。

「何だか様子がおかしいぞ…」

 離れた所に立っていたカレンが本を睨みつけて呟く。
 三人の魔力はすんなり戻ったのに、まるでタナの魔力だけは返さないと、魔道書が抵抗しているかのようだった。
 タナは僅かに眉を寄せ、イリアに近付いた。少女は固く目を閉じ、口唇を噛んで必死に制御していた。

 このまま続ければ少女が壊れてしまいかねない。タナは中断させようと口を開いた。だが次の瞬間、魔道書が巨大化し始めた。

「何がどうなってるんだ…?」

 タナとイリアの側で様子を窺っていたフレイが、あっという間に巨大化した魔道書を見上げて呟く。タナはイリアの肩にそっと手を乗せた。

「イリアさん、中断して下さい。魔道書が抵抗していて、これ以上続けても無駄です」

 緊迫した固いタナの声に、イリアはゆっくりと目を開け、無意識に止めていた呼吸を再開した。

 魔道書がゆっくりと起き上がる。その大きさはゆうに天井近くまであった。
 ばらり、ばらり、と重い音を立て、ページが一枚ずつ捲れていく。そして複雑な魔法陣が描かれているページで、その動きが止まった。

 本能的にマズイと判断し、タナはイリアの細い腕を掴んでその場から離れようとした。しかし、魔道書から光が放たれるのが僅かに早かった。

「!!」
「きゃあっ!」

「タナ! イリア!」

 タナとイリアの体がふわりと宙に浮き、魔道書へ吸い込まれていく。
 ダリが素早く呪文を唱え、二人の近くにいたフレイが咄嗟にタナが握っていた杖を掴んだが、魔道書からの圧倒的な力に、フレイも同じように吸い込まれていった。

「フレイ!」

 サンダーが飛びかかろうとするが、バンッ! と大きな音を立てて魔道書が閉じられてしまった。こじ開けようともがくが、その巨大な本はぴくりとも動かなかった。

「―― 一体これは何の騒ぎですの!?」

 不意に部屋の入口から甲高い声が響き、その場にいた全員は驚いて振り返った。
 サンダーが逃げるかのように姿を消す。

 部屋の入口に立っていたのは、細い眉を吊り上げた美少女だった。腰まで伸びる長い琥珀色の髪は緩くウェーブがかっている。
 その髪を揺らし、濃いワインレッドのドレスの裾を掴んで、ズカズカと部屋に入ってくる。
 その場にいたメンバーの中で、唯一少女を見たことのあるユーリが、慌てて頭を下げて彼女の名前を呟いた。

「エリグレーテ王女様……」

 シャロル国第一王女、エリグレーテ=リディ=カタルト=シャロルその人が、険しい表情で一同を見渡していた。






 気を失っていたタナは、何かの気配を感じて目を覚ました。

「――っ!」

 ズキリと頭が痛み、こめかみを押さえながらゆっくりと体を起して辺りを見回した。何処に明かりがあるのか、タナの居る場所は明るく、視界もはっきりとしていた。

 赤茶けたレンガの壁に囲まれた小部屋に彼はいた。冷たい石畳の床の先には、倒れている金髪の男女。
 右手に堅いアイオンの杖が握られているのを確かめ、その杖を支えにタナは立ち上がり、二人に近付いた。

「フレイさん、イリアさん」

 声をかけ、体を揺らす。ゆっくりと二人は目を覚まして体を起こした。

「ここは……」

 頭を軽く振りながらフレイが呟く。タナは再度周りを見回し、何が起きたのかを一つずつ思い出していた。

 魔力を奪う魔道書。僧侶イリアの力で魔力を取り戻そうとした時、魔道書が抵抗し、巨大化していった。そして見慣れない魔法陣のページが視界いっぱいに広がり――

「……恐らく、魔道書の中でしょうね」

 溜息混じりにタナは答えた。

 今頃外では大騒ぎになっている事だろう。
 タナの魔力は全く戻っていない。魔道書の中から脱出するのは難しそうだった。

 フレイは丈の長い上着の裾を払いながら立ち上がり、床や壁を調べ始める。それを視界の端に収めながら、タナはイリアに顔を向けた。少女は未だ床に蹲っていた。

「イリアさん、大丈夫ですか?」
「は、はい…何とか……」

 小さく頷いてイリアはゆっくりと立ち上がった。だがその顔色は悪い。
 魔道書に取り込まれるまで、かなりの魔力を消耗していたのだから無理もないだろう。タナは少女の細い体を支えた。

 下手に動かず、この場で助けが来るのを待つべきか、とタナは一瞬考えたが、すぐにその考えを追い払った。
 あの場にいた全員が魔道書に取り込まれていないという保障は無い。
 イリアには申し訳無いが、頑張ってもらうしかないだろう。

「ん…?」

 ふとフレイが声を上げた。そちらに目を向けると、彼は形の良い眉を寄せて一枚の扉を睨みつけていた。

「……この扉、最初からここにあったか?」
「いえ…先ほどまでなかったはずです」

 フレイの問いにタナは首を傾げた。

 何も無い殺風景な空間。広くはなく、寧ろ狭いと感じるこの場所に、こんな扉があれば見逃す事はまずないだろう。
 いかにも怪しい扉を三人が見つめていると、ギィ…と軋んだ音を立てて扉が勝手に押し開けられた。

 フレイが咄嗟に身構える。しかしいくら待っても何も起きなかった。
 フレイは訝しんでタナとイリアを振り返り、扉に静かに近付いて中を覗き込んだ。
 扉の先には横幅の広い廊下が、真っ直ぐと何処までも伸びていた。

「凄い数の本棚が並んでるな……」

 彼の言葉通り、廊下の両側は本棚になっており、様々な本が隙間無くびっしりと詰められていた。

「どうする?」

 扉のノブに手をかけてフレイが尋ねる。タナは迷う事無くイリアを連れて扉に近付いた。

「先へ進みましょう。誘いに乗るのが一番の近道でしょうし」

 フレイは青い目を丸くして黒髪の青年を見つめた。だがすぐにニヤリと笑みを浮かべる。

「中々無謀でいらっしゃる。ま、俺も同感だな。ここでじっとしているのは性に合わないんでね」

 そう言ってフレイは笑みを深くしてイリアの顔を見た。

「お嬢さんは私が必ずお守りしますので、何が起きても後ろで見物してて構いませんよ」
「…はい…すみません……」

 シャロル国王宮騎士団長らしい穏やかな笑みに頬を僅かに染め、少女は申し訳なさそうに頷いた。

「今度二人きりでのんびりお茶でもしましょう」

 などと一方的に約束しつつ、フレイは扉を押し開けて廊下に足を踏み入れた。


「ふわぁ、すごいですね……」

 廊下の両壁に立ち並ぶ本棚を見上げ、少女が感嘆の声を上げた。
 本棚にぎっしりと詰まっている本は魔道書をはじめ、歴史書や小説、図鑑に辞典など、様々だった。
 学問の国シャロル国にある王立図書館以上の本があるのは明らかだった。

 タナは一冊読んでみたい誘惑に駆られたが、ぐっと堪えた。ここは魔道書の中なのだ。迂闊に本を手にすれば、また何かしらの事が起きるに違いない。
 イリアもそれを分かっているのか、本棚を見上げるだけで、決して近付こうとはしなかった。

「……何だ?」

 二人の前を歩くフレイが不意に足を止めた。タナとイリアは彼の隣に立ち、視線の先を見た。
 廊下の先に表紙の角を金属で装飾された分厚い二冊の本が落ちていた。近くの本棚にはその本が入っていたのだろう、本と本の間に不自然な隙間があった。

 どこからどう見ても罠にしか見えないその光景を無視し、フレイが足を進める。しかし二冊の本はふわりと宙を浮かび、側を通り抜けようとしたフレイに飛びかかった。

「おいおい……」

 フレイは嘆息しながら体を捻り、二冊の本を易々と避けた。本はバサバサとページを翼のように羽ばたかせ、旋回して再びフレイに襲いかかった。
 分厚く、重さもかなりありそうな本にも関わらず、青年に迫る速度はかなりのものだった。装飾の金属部分で殴られれば、命を落としかねない。
 だがフレイは口元に小さな笑みを浮かべ、白い上着の裾を払った。

 彼の手には長い上着に隠れていた短剣がいつの間にか握られていた。白刃が一瞬煌き、短剣が微かに動いた。
 二冊の本がフレイのすぐ側を横切り、直後、ドサッと重い音を立てて地面に落下した。
 一冊は見事に真っ二つになっており、もう一冊は表紙に深々と短剣が突き刺さっていた。

 タナは愕然と目を見開いてフレイと地面に落ちる二冊の本を見ていた。
 タナにはフレイの動きを捉える事は出来なかった。更に言うならば、ここまで素早く的確に一撃で敵を仕留める人物を見たのは初めてだった。

 敏腕の王宮騎士団長という肩書は伊達では無い。彼は政治の腕だけでなく、武術にも秀でていた。
 本が全く動かなくなったのを確認したフレイは、短剣を抜いて腰の鞘に剣を戻した。そして両手に二冊の本を持ち、タナとイリアを振り返る。

「試しに本棚に戻してみるか」
「そうですね……」

 タナは少し迷ったが頷いた。
 このまま廊下を突き進むのも構わないが、試してみる価値はあるだろう。
 フレイは隙間のある本棚に近付き、そこに二冊の本を戻した。
 カチリ、と小さな音が響き、本棚が静かにゆっくりと横に動き始める。

「当たりだ」

 フレイは指を鳴らして笑みを浮かべた。
 本棚が移動した場所に別の道が伸びていたのだ。三人は迷う事なくそちらへ足を向けた。





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