森の中、白く降り積もる雪の上に、赤い染みと人の足跡がぽつぽつと続いていた。染みと足跡の間隔は徐々に狭くなっており、そしてその先に一人の青年が倒れていた。 血に濡れた金の髪は乱れ、いつから倒れているのか、雪が積もっている。着ている服は所々が裂け、赤く染まっていない方が少ない状態だった。 青年の体を中心に、赤い染みがじわりと広がっていく。 寒さと出血で動けない筈のその体が、ピクリと微かに動いた。 赤く染まった手がゆっくりと伸び、目の前に落ちている、刃こぼれした短剣を掴んだ。 手に馴染む冷たい感触に、感覚が僅かに冴える。同時に手に残っている肉を切った感触と、赤い血の温かさも蘇り、顔を顰めて咳き込んだ。 実の弟を手に掛けた罪が彼を蝕む。 知らなかったというのは言い訳でしかない。 弟は変わり果てた彼を、一目見て兄だと気付いたのだから。 華やかな王国。その裏側の闇世界。 罪を背負い、行方の分からないもう一人の弟を見つけるべく、闇から逃げようとした。 しかし闇世界の住人は、情報が漏れるのを避ける為、彼を消すように刺客を放った。 最初のうちはそれなりに応戦していた。彼自身も暗殺者として生きてきたのだ。しかし刺客の数が一気に増え、遂に彼は力尽きて倒れた。 だがここで死ぬ訳にはいかないという思いが、今の彼を突き動かしていた。 ひゅーひゅー、と喉から酸素が漏れ出るような音をさせながら、荒い呼吸を繰り返し、貧血と全身に走る鈍い痛みを堪えながら体を起こす。しかし急激な眩暈に襲われ、再び雪の上に倒れた。 朦朧とし始めた意識の中、さくさくと雪を踏みしめる軽い足音が耳に届いた。 ここまでか、と歯を食いしばる。 落した短剣を再び手にする力すら残されていない。 自嘲じみた笑みを微かに浮かべ、薄らいでいく意識が最後に捉えたのは、白い景色にくっきりと浮かぶ、艶やかな琥珀色だった。 22:血に塗れた掌で 何度か似たような本棚が立ち並ぶ通路を抜け、三人はようやく本棚のない通路に出た。 左右は赤茶けたレンガの壁。奥は光が届いておらず、暗い闇。三人の足音だけが冷たく響き渡るだけの通路。 ふ、と前方を歩くフレイが足を止めて目を細めた。少し遅れてタナとイリアも足を止める。 「どうかしました?」 訝しげにタナが尋ねると、フレイは振り返る事なく口を開いた。 「お客さんだ」 その声と同時に前方からカツカツと硬い足音が聞こえてきた。 明かりの下で足を止めたのは、明るい紫の髪を持つ一人の男だった。血のような紅い目は細められて三人を睨んでいる。 手には抜き身の片手剣が握られており、既に殺気立っていた。 自分たちと同じように魔道書に囚われた人物ではないのは明らかだった。 禍々しい殺気にイリアが顔を青くし、口元を押さえて数歩後退った。 「お嬢さんを頼むよ」 男から目を離さず、フレイはタナに声をかけて短剣を抜いた。 男が剣を構えて地面を蹴り、フレイを無視してタナへと迫る。白刃がタナに触れる寸前、間に割り込んだフレイの短剣が片手剣を弾いた。男は剣を引き、後ろに跳躍して距離を取る。赤い目がタナからフレイへ移動した。 その視線を受け止めたフレイは口元に笑みを浮かべた。 「……本気を出すのは久しぶりだな」 小さく呟き、ゆっくりと息を吸って青い目を細めた。 彼の中でかなり小さくなっていた昔の感覚が湧き上がる。ふ、と忠誠を誓った主の顔が浮かんだが、今はそれを無理やり追い払った。 瞬時に纏う空気が変わったフレイを見て、イリアは眩暈を覚えてその場に座り込んだ。タナが慌てて彼女を支える。 カタカタとイリアの手が小刻みに震えていた。 聖職者でもある彼女にとって、この場に満ちている空気はかなり辛いものなのだろう。 男の殺気だけでもかなりのものなのに、フレイから放たれている気もまた、普段の彼からは全く想像がつかない暗いものだった。 殺される前に殺す。狩人そのもの。 男とフレイが同時に動いた。ガキンッ! と金属音が響き渡る。 片手剣と短剣、リーチの違いから、フレイがやや押され気味のようだった。突き出された剣を短剣の腹で防ぐ。上段から振り下ろされた刃は、一歩後ろに下がって避けた。 空を切った剣はすぐさま下段から迫った。フレイは下げた片足に力を入れ、短剣を迫った白刃へ叩きつけた。 ゴキッ! と耳障りな音を響かせ、男の持つ片手剣の刃が中程からボッキリと折れた。折れた刃は床を滑り、タナとイリアのすぐ側で止まる。 二人の意識が一瞬そちらへ移動した瞬間、戦いに決着がついていた。 フレイは剣を折った直後、男の懐に一気に踏み込み、短剣を下から勢い良く振り抜いたのだった。 ザックリと袈裟がけに斬られた男は声にならない断末魔を上げ、ぶわっ、と黒い塵になって消えていった。 小さな音を立ててフレイが剣を鞘に戻す。その姿に乱れは殆ど見られなかった。 フレイの纏う空気がいつもの軽い物へと変わる。しかしイリアは床に座り込んだまま、未だ微かに体を震わせながら、青年を見上げていた。 怯える彼女の緑の双眸を見て、フレイは内心溜息を吐いた。 かつて少女のように怯えた目で見つめ、フレイを軽蔑した娘がいたことを思い出し、自嘲じみた笑みを浮かべた。 ふ、とイリアと同じくらいの歳だったな、と何となく思い出し、フレイは笑みを瞬時に消した。彼女らと同い年の娘を、もう一人思い出す。 決して突き放す事はなく、血に塗れた手を優しく握り締めてくれ、有りのままの自分を受け入れてくれた琥珀色の少女。 フレイは目を閉じ、心の中で、まるで壊れ物のように大切にその名前をそっと呟いた。 (…エリグレーテ王女……。今頃怒ってるだろうな……) 肩を怒らせ、辺りに怒鳴り散らしている姿を思い浮かべ、フレイは内心苦笑した。 フレイの想像通り、シャロル国第一王女エリグレーテは、部屋にいた四人を質問攻めにしていた。 「フレイもここに居た筈ですわよね? 一体何処に消えたのですか?」 甲高い声を部屋一杯に響かせながら尋ねる。カレンは顔を顰めて両手で耳を押さえていた。レイニー、ダリも似たように参った顔をしている。ユーリだけが彼女を宥めようと努力していた。 「フレイ殿はタナと共に、この魔道書の中に取り込まれました…」 エリグレーテはその答えに側に佇む巨大な魔道書を見上げた。 「これが、魔道書……?」 タナ、フレイ、イリアの三人を取り込んだ魔道書はピクリとも動かず、沈黙を守っている。 表紙のカバーの色は、最初に見た時と比べると、かなり黒ずんでいた。 「実は大精霊サンダーが絡んでまして」 ユーリはいつの間にか姿を消している大精霊の名を口にした。解決法が全く分からないのに逃げるな、という考えからだった。 「まあ、またあの大精霊の仕業ですの?」 目を見開いたエリグレーテは、すぐに細い眉を寄せた。そして何もない空間に向けて声を投げかける。 「近くにいるのでしょう? 出ていらっしゃい」 逆らう事を許さないその強い口調に、五人の近くに紫の光の玉が不意に浮かび上がった。中から恨みがましくユーリを見つめるサンダーが姿を現す。 王女はつかつかと彼に歩み寄り、ぐいっ、と長い黄色のスカーフを掴んだ。 「貴方ならばすぐに解決出来ますわよね?」 にっこりと微笑んで言う少女に、サンダーは目を逸らして呟いた。 「無理だよ……」 「どうしてですの?」 細い眉を顰めて尋ねると、サンダーは魔道書を見上げた。 「タナの魔力を取り込んでいる上に、タナまで中に入ってるからね……」 僕ひとりじゃ無理、とサンダーは溜息混じりに答えた。 「役立たずな大精霊ですことね」 王女がサンダーを睨みつけて呟く。サンダーは何か言い返そうとしたが、ぐっと堪えた。彼はこの王女が苦手だった。 カナムーン国第二王女と、メサム国第一王女と全く引けを取らない程の美貌を持ち、あのフレイを付き従わせる強さと気丈さを持つ少女。 下手に反論すれば何十倍にもなって返ってきそうだった。 サンダーが何も言い返さないのをいい事に、エリグレーテは続ける。 「そもそも、こういう状況になったのは、貴方の所為ではなくって?」 「うっ……」 図星だった。 サンダーが迂闊に魔道書に触れたりしなければ、こんな騒ぎにはならなかっただろう。 「今日は何日も前からフレイと約束してましたのよ? それなのに緊急の用が出来たからと断わりを入れてきて……」 王女は眉を下げ、小さく俯いた。琥珀色の髪がサラサラと零れる。 サンダーは普段より小さく見える少女を見つめて、素直に反省していた。 何が起きてもエリグレーテを最優先する多忙のフレイが、彼女との約束を断らなくてはいけなくなった原因は自分にある。 どんな仕返しをされるんだろう、とサンダーは顔を僅かに青くして、魔道書を見上げた。 「先へ進もう」 フレイは座り込んでいるタナとイリアに近付く事無く声をかけた。 タナは頷き、イリアに手を貸す。少女は顔色も悪いまま、何とか立ち上がった。 特に言葉を交わすことも無く、黙々と通路を進む。 三人以外に何も無い通路を歩き続けて十数分程すると、急に開けた空間に出た。 半球状の天井の広い部屋。その中央には白い光と煙に包まれた、赤いカバーの巨大な本が聳え立っていた。 恐らくこの場所がタナたち三人を取り込んだ魔道書の核部分なのだろう。そしてタナには目の前の本を包み込んでいる光と煙が、自身の魔力だと分かった。 「ここまで来れば、僕一人でも魔力を取り戻せそうですね」 辛そうなイリアを気遣い、タナは杖を右手に持ってそう告げた。 「じゃあ、のんびり見学させてもらうよ」 そう言ってフレイは後ろに下がり、タナの為に場所を空けた。タナは頷いて魔道書の前に立ち、アイオンの杖を両手で構えた。 目を閉じて意識を集中する。 何度も訓練してきたように、魔力の流れを掴む。 元々タナの中にあった魔力なので、その流れを掴むのは簡単だった。あとは「戻れ」と命令する。それだけ。 タナの小さな声に反応し、光と煙が激しく動き始めた。魔力の風まで起こり、三人を吹き飛ばそうとする。 体重の軽いイリアの体が僅かに浮いた瞬間、フレイが手を伸ばして彼女の腕を捕まえた。 イリアは一瞬ビクリと体を震わせたが、その手を払う事はしなかった。少女の緑色の双眸から怯えていた影が消える。 少女はフレイに体を支えてもらいながら、黒髪の青年の背中を見つめた。 魔道書が抵抗するように、白い閃光をいくつも走らせる。そのひとつがタナを掠めたが、彼はその場から動かなかった。 バサバサと黒いマントを大きくはためかせる風は、部屋の中央の魔道書を飲み込んで渦を巻き始め、光と煙と共に竜巻へと変化していく。 パチパチといくつもの小さな光が弾けた。バラバラと本のページが捲られていく乾いた音が響き渡る。 音は次第に聴こえなくなり、そして竜巻も徐々に小さくなっていった。 巨大な本があった場所には本の姿は無く、白い光の粒子が無数に漂っていた。それらの半分はタナの元へとやってきて、彼の体の中に消え、もう半分は大きな虹色の光の玉を囲んでいた。 タナは杖を下ろし、目を開けて二人を振り返った。 「行きましょう。ようやくここから出られそうですよ」 穏やかなその声に、イリアとフレイは自然と笑みを浮かべて彼の側まで歩み寄った。 『では、わたくしの“カタルト”という名を授けますわ。それで問題無い筈ですわよね? お父様』 幼い少女が発したその言葉は、彼女の父である国王すらも絶句させる力を持っていた。 『貴方は今日からフレイ=カタルトと名乗っていいですわよ。その名に恥じない位の働きを見せて下さいね』 琥珀色の長い髪を揺らし、少女はにっこりと微笑んだ。 部屋の中央に陣取っている魔道書の表紙が、ザアア、と音を立ててその色を変え始めた。 黒ずんだ赤から鮮やかな赤色に変わり、橙、黄色、そして白く変化した。 いきなりの事に驚いた一同は、目を見開いて魔道書を見つめる。 バラリ、バラリ、と大きな音を立てて本のページが捲れ出した。 ユーリとサンダーは咄嗟に前に出て、他の四人を守るように身構えた。 魔道書は複雑な魔法陣が描かれたページでその動きを止め、直後、真白い光を解き放った。 「うわっ!」 「きゃあっ!」 強烈な光に一同は目を固く閉じた。一瞬後、パンッ! と何かが弾ける音が部屋に響き渡った。 魔道書から無数の黒い羽根が吹き出し、その直後、魔道書は白い光の粒子へと変化し、天井へと昇っていく。 その光の中に三つの人影が浮かび上がった。 魔道書に取り込まれたタナ、フレイ、イリアだった。 「――フレイ!」 三人に気付いた王女が、ドレスの裾を両手で掴んで足早に歩み寄る。名を呼ばれたフレイは深く頭を下げた。 「申し訳ありません…エリィ王女」 「全くですわ! わたくしとの約束を破ったどころか、わたくしに何も話さないなんて……」 細い眉を吊り上げるエリグレーテにフレイは苦笑し、彼女の前に跪いた。 「後でサンダーの奴と小言を聞きに向かいますので、今はこれでお許しを」 そう言ってフレイは王女の白く細い手を取り、その甲に恭しく口付けた。エリグレーテは吊り上げていた眉を渋々戻し、頷いた。 「分りましたわ。元々はあの大精霊の所為だと聞いてますしね」 王女はちらりと雷の大精霊に目を向けた。その鋭い視線にサンダーは小さく悲鳴を上げて手のひらサイズに変化し、タナの肩に飛んでビクビクと隠れた。 その様子にタナは苦笑し、少し離れた所に立っている金髪の娘に目を向けた。彼の視線に気付いたレイニーは、ふわりと微笑んだ。 「あ、そうだタナ。もうすぐドーラ国に渡るつもりだろ?」 黒髪の青年の肩にとまっているサンダーが、ふと尋ねた。この言葉に一同の間に緊張が走る。 魔族の王が支配しているといわれるドーラ国。正に敵の本拠地のその国に渡ってしまえば、今までのようにどこかのんびりとした旅ではなくなる。 タナは気持ちを引き締めて頷いた。 「じゃあ、先にドーラ国にいる光と闇の大精霊に会うといいよ。君の事についても話してくれるだろうしね」 「僕の事…ですか?」 今更何があるというのだろう。タナはきょとんとして聞き返した。サンダーは青年の黒い目を真っ直ぐ見つめ、はっきりと告げた。 「君と大賢者アイオン。――そしてサフランの事を、ね」 初めて聞いた名前に一同は首を傾げた。だがタナだけが黒い目を僅かに見開いてサンダーを見つめ返していた。 タナの中に幼い頃の記憶が蘇る。 短く切り揃えた黒髪と、冷たい緑の目を持つ女性セルジュと、何処か寂しそうに微笑む橙色の目を持つ金髪の青年。 彼らがタナを呼んでいた時の名が、「サフラン」だった。 広い空間の中央付近に彼女は立っていた。 左右の壁のステンドグラスからは赤い月の光が差し込み、部屋を複雑な色に染め上げている。 彼女の目の前には仄かな光を放つ、いくつもの亀裂の走った円柱の水晶。 「――イファルナ=ドーラ=シュラール……」 小さな呟きに、水晶の中に女性の姿が浮かび上がる。 このドーラ国の本来の王であり、人間たちの最後の砦でもある女性。 水晶柱を見上げていた女は、ドンッ! と両手で水晶を殴った。 眉を寄せ、きつく目を閉じ、苦しそうに言葉を吐き出す。 「……いつまでそこで眠り続けてるのよ…ッ!」 その悲痛な嘆き声は女性には届く事はなく、広い部屋に空しく響き渡っただけだった。 不意に女は水晶から離れ、姿勢を整えた。その一瞬後、部屋の中に別の気配が生まれる。 「――セルジュ様……」 「すぐに行くわ」 短い答えに気配はすぐに消えた。その後を追うように、セルジュはもう一度だけ水晶柱を見上げて、空気に溶けるように姿を消した。 |